96 いつものアレ……できるよね?
『任せろ、シア! 僕にしかできないなんて、どんな難しいことなんだ?』
「チロルにしかできない」と言われたことが嬉しいのか、チロルはどや顔で目をキラキラと輝かせている。
(う、大丈夫かな……)
少々の不安を覚えつつも、オルタンシアは端的に状況を告げた。
「私はここから動けないから、チロルは一人でこの宮殿のいろいろな部屋に行って、みんなの話をこっそり聞いて来てほしいの」
『……別にいいが、僕が聞いても人間の難しい話はわからないぞ』
「それは大丈夫。いつものアレ……できるよね?」
そう微笑みかけると、チロルははっとしたように頷いた。
『もちろんだ!』
「ふふ、ありがとう」
オルタンシアはそっとチロルのふわふわな前足を手に取り、そっとぷにぷにの肉球に触れた。
そして、目を閉じて一心に念じる。
(――『感覚共有』)
これもまた、女神によって授けられた加護の一つである。
こうして相手に触れ、心を通じ合わせることで……一定時間、感覚――視覚や聴覚といった五感を共有することができる。
(考えてみれば、とんでもないスキルだよね……)
感覚を共有するには双方の合意が必要で、むりやり相手の視界をジャックしたりすることはできない。
だがやり方しだいによっては、どこまででも悪用できてしまうだろう。
だからオルタンシアは、このスキルのことは誰にも話していない。
今までこうやって感覚を共有する練習をしたのも、チロルだけだ。
(お願い、成功して……!)
何度か練習してきたが、このスキルを使いこなすのはかなり難しい。
今のところオルタンシアがある程度使いこなせるのは、チロルと聴覚を共有することだけだ。
(前に嗅覚を共有しようとした時は大変だったな……。猫って思った以上に鼻が利くんだね……)
試しに感覚を共有しながら「屋敷の中を散歩しておいで」と送り出したチロルは、うっかりスパイス料理を作っている途中の厨房に突入してしまったのだ。
その結果、人間の身でネコ科の嗅覚を味わうことになってしまったオルタンシアは、四方八方から襲い来る刺激的な香りの嵐に悶絶することになってしまった。
(あの時は本当に鼻が曲がるかと思っちゃった。それに比べると、猫の聴覚は人間の2~3倍らしいから、多分大丈夫……のはず)
そっとチロルと聴覚を共有させると、その途端に今まで意識していなかった様々な音が飛び込んでくる。
夜会の喧騒、夜風が木の葉を揺らす音、どこかで待機している馬が鼻を鳴らす音……。
(……たぶん、長くはもたない。早めに情報収集してもらわないと)
「それじゃあチロル、色々な場所を回ってこっそり話を聞いてくれる? なんとなく、ひそひそ話してる人のところに行ってみてね!」
『おう、任せろ!』
チロルは得意げに胸を張ると、しなやかな動きでバルコニーから飛び降りていった。
すぐにカサカサと、彼が草を踏みしめながら移動している音がオルタンシアの耳に届く。
(チロル、頑張って……!)
やがてチロルは開いている窓を見つけたのか、ヒュン、とジャンプして固い地面に降り立ったようだ。
遠くから人の話し声も聞こえることから、建物内に入ることができたのだろう。
(よし、偉い……!)
帰ってきたらたくさんナデナデしてあげようと、オルタンシアは心に誓った。
チロルは建物内を巡り、空いている部屋に首を突っ込んでいるようだ。
カチャカチャと食器を扱う音、使用人が集まって愚痴を零す声、賭け事に興じる複数人の声など、チロルが聞いているであろう様々な「音」が聞こえてくる。
(うっ、頭痛い……でも、頑張らないと……!)
オルタンシアは必死に、何か有益な情報はないかと神経を研ぎ澄ます。
だが聞こえてくる音は、貴族の館で開かれる夜会としてはありふれたものばかりだ。
ずっと感覚を共有し続けるのも、思った以上に心身にダメージが蓄積されていく。
もう、長くはもたないだろう。
(あと少し、何か、何かあれば……!)
そう願うオルタンシアの耳に、チロルが新たな部屋へ足を踏み入れたらしき物音が聞こえてくる。
どうやら何人かの参加者が集まり、カード遊びに興じているようだ。
手早くカードを切る音、グラスの氷が揺れる小気味の良い音、それに……噂話で盛り上がる者たちの声が聞こえてくる。
「ちっ、また負けた……」
「卿は手札の良しあしが顔に出すぎだな」
「もっと隠し通さなければ足元を掬われますわよ?」
(ここも駄目か……)
いよいよ、くらくらと眩暈がしてきた。
そろそろ感覚共有を止めようかと考え始めた時――。
「そういえば、ご覧になりまして? 今宵はヴェリテ公爵家のご令嬢がいらっしゃっておりましたわ」
(私の話……!)
オルタンシアははっとして、慌てて彼らの話に集中した。