91 すれ違う想い
「おやおや、お嬢様がすごい勢いで走って行かれましたが……いったい何があったのです?」
心配そうな言葉とは裏腹に、にやにやと面白がるような表情で入室してきたリュシアンに、ジェラールは内心で舌打ちをした。
実務能力は申し分ないのだが、ジェラールはこの男のこういった性質が好きではなかった。
「……お前には関係ない」
「おや、なんと冷たいお言葉でしょう。そんな態度で接していては、お嬢様も怯えてしまいますよ? たとえそれが……お嬢様を守るためだったとしても」
訳知り顔でそんなことをのたまうリュシアンを、ジェラールは殺気を込めた瞳で睨みつける。
だがそんなジェラールの視線にもひるむことなく、リュシアンはやれやれといった調子で肩をすくめてみせた。
「これは失礼、つい癖が出てしまいました。私が授かった加護は少々特殊で……意図せず、他者の胸の内を垣間見てしまうことがあるのですよ」
リュシアンが告げた内容はとんでもないものだったが、ジェラールは特段驚くことはなかった。
この男の思わせぶりな態度から、なんとなくそう予測していたのである。
「……よく今まで生きてこられたな」
「もちろん、信頼できる方以外には隠し通してきましたから。このご時世、どんなところで悪用されるかわかりませんからね」
てきぱきと書類整理のために手を動かしながらも、リュシアンの口は止まらない。
「ジェラール様は必死にお嬢様を悲劇的な運命から守ろうとしていらっしゃるのに、当のお嬢様にはちっとも伝わらない。悲しいものですねぇ」
「……俺の思考を読むのはやめろ」
「失礼いたしました。ですが、先ほど申し上げた通り私も読もうと思って読んでいるわけではないのですよ。ただ……ジェラール様の頭の中に描くヴィジョンが見えてしまったのです。……オルタンシアお嬢様が、悲劇的な死を迎えるその光景が」
彼の言葉に、再びジェラールの頭の中に彼の光景が蘇る。
――「違います、私は………りません……。私は決して、……を……りなど――」
――「お……お兄さま! 助けてください!!」
数年前からジェラールを悩ませている悪夢が、どんどんと鮮明になってきている。
最初は、ただの夢だと思っていた。
だが、悪夢は執拗にジェラールに付きまとい続けた。
公爵家を離れ、学院にいる間はほとんどみることもなくなっていたのだが……ここに戻って来てから、再び悪夢に悩まされるようになってきている。
更に恐ろしいのは、悪夢の中のオルタンシアに成長したオルタンシアがどんどん近づいて来てることだ。
いつからかジェラールは、あの光景が未来に起こる出来事の暗示なのではないかと思うようになっていた。
もちろん現実にそんなことが起これば、ジェラールを何に変えてもオルタンシアを救い出そうとするだろう。
だが、夢の中のジェラールは……救いを求めてオルタンシアが伸ばした手を掴むこともできずに、ただただ彼女が断頭台に送られその命を終えるのを見ていることしかできなかった。
……ただの夢だと、気にするだけ無駄だと切り捨てることはもうできない。
もしもあの夢の通りにオルタンシアが断頭台へ連れていかれ、ジェラールは彼女を救い出すこともできないのだとしたら……。
そう考えると、気が狂いそうになってしまう。
だからジェラールは、オルタンシアに何もしてほしくはない。
昔のように何もせず、この屋敷の中でおとなしく過ごして入れば……少なくとも、ジェラールと父の手で降りかかる火の粉を払ってやることができるだろう。
あるいは、オルタンシアに夢の内容を話せばいいのかもしれない。
だが、ジェラールはどうしても彼女に悪夢について話すことはできなかった。
自分が死ぬ未来の夢を義兄が見続けていると知れば、オルタンシアは怯えるだろう。
不確定な夢ごときで、彼女の笑顔を曇らせたくはない。
たとえオルタンシアに嫌われたとしても、不器用なジェラールはこうするしかなかったのだ。
「……私はジェラール様のお考えに賛成ですよ。多くの加護を授かっていらっしゃるジェラール様ですから、きっとその夢にも意味があるはずです。きっといつか、お嬢様も理解してくださる日が来るでしょう」
気遣うようなリュシアンの言葉を聞きながら、ジェラールはじっと執務室の扉を見つめていた。