90 終わらない悪夢
ジェラールは本当に生きているのか疑いたくなるほど、静かに眠っていた。
もう手を伸ばせば触れられるほどの距離まで近づいて、オルタンシアはあらためて目の前の人物の美しさにため息をついてしまう。
(本当に、お兄様ってずるいくらいに綺麗だよね……)
神々しいとでも言うべきだろうか。
思わず近づくのをためらってしまうほど、彼には丹精を込めて作られた芸術品のような美しさが備わっているのだ。
じっと見つめていると、ふいに彼の眉間に皺が寄る。
一瞬、起こしてしまったのかと思い焦ったが……更に彼がうなされているかのようなうめき声を発し始めたので、オルタンシアは慌ててしまう。
(ど、どうしよう……お兄様、悪い夢でも見ているの? だったら、起こしてあげないと!)
「お、お兄様……? 大丈夫ですか……?」
オルタンシアはそっと、ジェラールの肩を叩きながらそう声をかけた。
その刺激に、ジェラールはゆっくりと瞼を開く。
そして、おずおずと覗き込むオルタンシアと目が合ったかと思うと――。
「っ!?」
急にがばりと身を起こしたジェラールが、強い力でオルタンシアの肩を掴んだ。
「お、お兄様!?」
「お前は……!」
目の前にいるのは確かに、オルタンシアの大好きな義兄のはずだ。
だが、今は恐ろしくてたまらなかった。
爪が食い込むほど強く、肩を掴む指先が。
強い激情を込めてこちらを睨む瞳が。
何よりも全身で感じる、禍々しい気配が。
とても、あのジェラールだとは思えなかったのだ。
「お、お兄様……痛いです……!」
じわりと目元に涙をにじませながら、オルタンシアは必死にそうジェラールへと呼びかけた。
やがて呼びかけが通じたのが、ジェラールは正気に返ったかのように見えた。
目の前で涙目になる義妹を目にして、ジェラールは驚いたように飛び退く。
「っ……!」
「お兄様! 大丈夫ですか!?」
――普段の彼が戻って来た。
直感的にそう悟ったオルタンシアは、義兄に駆け寄りぎゅっと抱き着く。
「お兄様、よかった……」
ジェラールはオルタンシアの行動に戸惑っていたようだが、やがて遠慮がちに背中に腕が回される。
「……すまない」
「いいえ、こんなの全然平気です。それより、お兄様……」
オルタンシアは先ほどの豹変について尋ねようとしたが、言葉が出てこなかった。
不用意に何かを口にすれば、今の彼との関係に決定的な亀裂が入ってしまうような気がしてならなかったのだ。
代わりに、おそるおそる問いかける。
「もしかして……また、悪い夢を見てたのですか?」
ジェラールは何も言わなかった。
つまりそれは……婉曲的な肯定に他ならない。
(やっぱり、お兄様の悪夢は終わっていなかったんだ……!)
先ほどの豹変も、もしかしたらその悪夢が影響しているのだろうか。
だとしたら――。
――「お前は……!」
あの時彼は、オルタンシアを見据えながらそう言った。
単にオルタンシアを誰かと間違えていた可能性もある。
だが――。
(もしかしてその悪夢って、私が関係しているの……?)
なぜだかオルタンシアは、そう思えてならなかったのだ。
「お兄様、教えてください。いったいどんな悪夢が、そんなにお兄様を苦しめているのですか……?」
しっかりと義兄にしがみつきながら、オルタンシアは縋るようにそう問いかける。
だがジェラールは、静かに首を横に振るだけだった。
「……お前が気にするようなことじゃない」
「そんな……気にならないわけないじゃないですか! お兄様が、こんなにつらそうなのに……」
ジェラールが苦しんでいると、オルタンシアも胸が痛くなる。
そうでなくとも彼は多くの重荷を背負っているのだ。
少しくらい、オルタンシアにも肩代わりさせてくれてもいいものを。
「……私、お兄様のお力になりたいんです。私にできることならなんでも言ってください。私だって、いろいろと頑張って――」
まっすぐにジェラールを見つめながら、オルタンシアは必死にそう言い縋った。
だが――。
「必要ない」
頭上から降って来たのは至って簡潔で、そして……オルタンシアの意とは真逆の言葉だった。
「お前は、何もしなくていい。ここでおとなしくしていろ」
「そんな……お兄様! 私、もう小さな子どもじゃないんですよ!? お兄様のお役にだって――」
「必要ないと言っている」
ジェラールにぴしゃりとそう言われ、オルタンシアは思わずひるんでしまった。
二度目の人生で公爵家にやって来てから……ここまであからさまに彼に拒絶されるのは、今までほとんどなかったのだから。
「……もう一度言う。何もするな」
いつになく強い口調で、ジェラールは重ねてそう告げた。
「無防備にうろつかれても迷惑だ。必要最低限のことだけこなし、屋敷でおとなしくしていろ」
オルタンシアはおそるおそる顔を上げる。
こちらを見つめる義兄は、いつになく険しく、そして冷たい表情をしていた。
(そんな、どうして……)
その表情と、一度目の人生で処刑される前に見た彼の顔が重なる。
――「黙れ、公爵家の恥さらしめ。……俺は一度たりとも、お前を妹などと思ったことはない」
(うまくいっていると、思っていたのに……)
今までになく、ジェラールを遠くに感じる。
これまでの温かな思い出は、全部嘘だったのだろうか。
(やだ、そんなの信じたくない……!)
胸の奥から激情がこみ上げてくる。
このままここにいたらみっともなく泣いてしまいそうだ。
そんな自分を今のジェラールには見られたくない。
きっと今の彼なら、鬱陶しくてたまらないという蔑んだ目をこちらへ向けるだろう。
「っ……!」
きっと、そうなったら耐えられない。
これまでに築いてきた関係が、二人の思い出が凍り付いてしまう。
それが怖くて、オルタンシアはジェラールの前から逃げ出していた。
……ジェラールは、追ってこなかった。
「おっと」
執務室の扉を開けると、外で控えていたらしいリュシアンが驚いたような声を上げる。
だがそれに構うことなく、オルタンシアはその場を走り去ったのだった。