88 お兄様、苛立つ
会場に戻ると、一気に舞踏会の喧騒が耳に届く。
「あっ、いた! どちらに行かれたんです?」
オルタンシアを探していたのか、すぐにジャネットが小走りに近づいてきた。
「ごめんね、ジャネット。ちょっと人に酔ったから夜風を浴びに行っていたの」
「確かにすごい人ですもんね。でも、その分最先端のファッションが揃っていて、勉強になるんですよ。あっ、エミリー見ました? あの子、熱心にアプロ―とされてて――」
「わぁ、すごい……!」
矢継ぎ早に繰り出すジャネットの話に相槌を打ちつつ、オルタンシアの頭の中では先ほどのヴィクトルの言葉がこだましていた。
――「……昔、君を誘拐したという邪教集団が最近また活動を再開したようだ」
あの時に見た、凄惨な光景が脳裏に蘇り血の気が引いていくような気がした。
それに……。
(魔神を崇拝する邪教集団……やっぱりお兄様の身に、危険が迫ってるんだ……!)
――『……オルタンシア、あなたの家族に危険が迫っています。魔神の魔の手は、既に迫りつつあるのです』
――『魔神はあなたの兄を狙っています。彼を乗っ取り、再び世界を闇に落とそうと企んでいるのです』
あの女神の言葉は真実だったのだ。
どうやら魔神はジェラールを狙っているらしい。オルタンシアの知らないところで、既に魔の手を伸ばし始めているのだろう。
(私がお兄様を守らなきゃ……。でも……)
再びヴィクトルの言葉を思い出し、オルタンシアは小さくため息をつく。
――「君もお兄さんから聞いているかもしれないけど、十分気を付けて」
例の邪教集団が再び活発になっているという話を、オルタンシアはジェラールから聞いたことなどなかった。
ヴィクトルの耳に入っているのならば、ジェラールが知らないわけがないのだろう。
それでも、きっと彼はオルタンシアを気遣って、話さなかったに違いない。
いつもなら嬉しく思う兄の気遣いが、今は歯がゆくてたまらなかった。
(お兄様、きっとまた一人で背負い込もうとしてるんだ……)
優雅な音楽に乗って踊ったり談笑に興じる周囲とは対照的に、オルタンシアの表情は曇っていく。
そんなオルタンシアに、ジャネットが気遣うように小声で声をかけた。
「……オルタンシア様、顔色が優れませんが大丈夫ですか? 疲れたのならどこかで休んだ方が――」
「う、ううん、大丈夫! あっ、エミリーが戻って来た!」
「あっ、本当ですね! ふふ、あの殿方と何があったのか問い詰めてやろうっと!」
少し頬を赤らめてぼぉっとするエミリーを、ジャネットが何やら質問攻めにしている。
(魔神が復活したら……お兄様だけじゃない。みんなめちゃくちゃになって、こんな光景もきっと二度とみられなくなる。……そんなの、絶対だめだよね)
オルタンシアは自分が特別だと思ったことはない。
だが、女神はオルタンシアに力を託したのだ。
(私も、もっと頑張らないと……!)
首元のチロルを撫で、オルタンシアは大きく息を吸う。
そして明るい笑顔を作り、ジャネットに突っつかれるエミリーへと助け船を出すのだった。
◇◇◇
その夜、ジェラールが公爵邸に戻ったのはとうに真夜中を過ぎてからだった。
「お帰りなさいませ、ジェラール様。オルタンシアお嬢様は既に自室に戻り、就寝されております」
「……誰もそんなことは聞いていない」
必要もないのに出迎え、誰も聞いていない事柄を律義に報告してくるリュシアンに、ジェラールは内心で舌打ちした。
「いえ、妹思いのジェラール様のこと、お嬢様のことを心配していらっしゃるかと思いまして。もっとも……私が報告するまでもなく、お嬢様のことならなんでも把握されているでしょうけどね」
含み笑いをしながらそう口にするリュシアンに、ジェラールは今度こそ舌打ちした。
確かに彼の言う通り……ジェラールは秘密裏に今夜の仮面舞踏会に潜入し、オルタンシアを見守っていたのだから。
「なんでも今宵の仮面舞踏会には、サプライズであのヴィクトル王子殿下も参加されていたのだとか。もしかしたらお嬢様ともお会いされたのかもしれませんね」
的確にこちらを苛立たせるようなことをのたまうリュシアンに、ジェラールは限りなく殺意に近い感情を抱いた。
彼の言う通り、ヴィクトル王子は正体を隠してオルタンシアに近づいたのだ。
彼がオルタンシアに何かするようならば、すぐにでも助けに入るつもりだったが、オルタンシアはあの場を一人で切り抜けた。
……ジェラールの助けなしで、王子と対峙してみせたのだ。
それがまた、ジェラールを苛立たせていた。
オルタンシアの成長は喜ばしいはずだ。だが、ジェラールの心の片隅には、いつまでも彼女に頼られたいという醜い独占欲のような感情が渦巻いていた。
更にヴィクトル王子は、ジェラールがひた隠しにしていた情報をオルタンシアに与えたのだ。
……過去のつらい体験が、どれだけオルタンシアを傷つけているのか知りもせずに。
ジェラールはただ、オルタンシアの平穏な生活が守れればそれでいい。
それなのになぜ、邪魔ばかり入るのだろうか。
何もかもが、腹立たしくてたまらない。
「……お嬢様もそろそろ、我々の手を離れる巣立ちの時なのかもしれませんね」
ニヤニヤと愉快そうに笑うリュシアンを睨みつけ、ジェラールは吐き捨てた。
「今すぐその不愉快な口を閉じろ」
「おっと失礼。やはりジェラール様には好ましくないお話でしたか」
これ以上リュシアンの相手をすれば、それこそ苛立ちのあまり自分が何をするかわからない。
ジェラールはリュシアンに背を向け、その場を立ち去った。
……オルタンシアの成長は喜ばしいはずだ。
だが、この手を離れていくくらいなら……小さく、哀れなオルタンシアのままでよかった。
頭の中で今夜見たばかりの、オルタンシアとヴィクトルの姿が蘇る。
その途端に胸の奥底から昏い感情が沸き上がり、ジェラールは奥歯を噛みしめた。
ふと顔を挙げれば、窓の外の夜空に星が瞬いているのが見える。
ジェラールの胸の内など知る由もなく、美しく瞬く星々を眺めていると……ふと、以前領地でオルタンシアと共に星を見た時のことを思い出す。
――「忘れないでくださいね、お兄様。私たち、はんぶんこなんですから。楽しいのも悲しいのも一緒です」
あの時、彼女はそう言ってくれた。
だが、今この胸に渦巻く醜い感情ばかりは……とても、彼女と共有できるとは思えなかった。