87 ちゃんと向き合うべきなのかもしれない
兄に向けられた冷たい言葉が、鈍く光るギロチンの刃が脳裏に蘇る。
オルタンシアとっさに逃げ出そうとしたが――。
「待って! これ以上近づかないから……話だけでも聞いてほしいんだ、シア……!」
耳に届いた切実な声に、オルタンシアは足を止めてしまう。
ちらりと視線をやると、ヴィクトルは少し困ったような顔でこちらを見つめていた。
その瞳があまりに切実で、オルタンシアは胸が締め付けられるような思いに駆られる。
――ヴィクトル王子と関わってはいけない。
それは、一度死んで公爵家に引き取られた日に戻って来た時に、真っ先に決めたことだ。
ヴィクトル王子の妃の選定がもとで、オルタンシアは陥れられ命を落としたのだから。
だが……その決断は、本当に正しかったのだろうか。
二度目の人生をやり直すことで、オルタンシアは自分の周りの様々な人間に、今まで知らなかった面があることを知ることができた。
オルタンシアが変わることで、彼らとの関係もまた変わっていった。
特に、恐ろしくてたまらなかった義兄ジェラールは今ではオルタンシアの一番大切な人だといっても過言ではない。
(だったら……ヴィクトル王子にも、ちゃんと向き合うべきなのかもしれない)
一度目の人生でも、彼は悪意があってオルタンシアを処刑に追いやったのではなかった。
二度目の人生で初めて出会った時の、純真な少年の姿が蘇る。
(……きっと、彼なら話せばわかるはず)
オルタンシアは意を決して、ヴィクトルへと向き直る。
オルタンシアが話を聞く態勢になったことで、ヴィクトルはほっとしたように表情を緩めた。
彼は「これ以上近づかないから」と言った通り、これ以上オルタンシアと距離を詰めようとはしなかった。
「まずは、謝らせてほしい。こんな、だまし討ちのような形で君に近づいたことを」
ヴィクトルは落ち着いた態度でそう口にして、深く頭を下げた。
王太子という立場の人間に頭を下げさせてしまったことに、オルタンシアは逆に慌ててしまう。
「いけません、殿下! 私に頭を下げるなど――」
「今だけはこうさせてくれ。ずっと、君に謝りたかったんだ」
彼の声には、懇願するような響きがこもっていた。
それを聞いて、オルタンシアは何も言えなくなってしまう。
「君が王宮を訪れた時に、まさかもう一度会えるなんて思ってもなかったから……つい君が怯えているのにも気づかずに、強引に近づいてしまった。君の事情を何も知らずに……本当に、済まなかったと思っている」
彼の心からの言葉に、オルタンシアの胸に罪悪感がこみ上げる。
ヴィクトルからすれば、急にいなくなった遊び相手がもう一度現れたのだから、親しげに声をかけるのは当然だ。
一度目の人生で、オルタンシアに何があったのかということなど、彼は知る由もないのだから。
「……王子殿下が謝罪なさる必要はございません」
オルタンシアは静かにそう口にする。
その言葉に、ヴィクトルは驚いたように顔を上げた。
「過剰な態度を取ってしまい、王子殿下を困惑させてしまったのは私にも落ち度があります」
「……どうしてそこまで僕を避けるのか、聞いてもいいかい?」
「……私は、妾の娘です。公爵家に引き取られるまでは、それこそ平民として暮らしておりました。それに……私は、一度邪教集団に誘拐されたこともあります。そんな私が王子殿下とお近づきになれば、よく思わない者も現れるでしょう。それは、王子殿下にとっても私にとっても好ましいことではありません」
本当のことは話せないが、慎重に言葉を選んで、オルタンシアは思いの丈をヴィクトルに伝えた。
ヴィクトルはしっかりとオルタンシアの言葉を聞き、少しだけ寂しそうに笑った。
「……話してくれてありがとう。君の思いが聞けて良かった」
ヴィクトルは、わかってくれた。オルタンシアの立場や事情を理解してくれたのだ。
その事実に、オルタンシアの胸は熱くなる。
(やっぱり、彼は話せばわかる人だったんだ……)
ほっと安堵の息を漏らすオルタンシアに、ヴィクトルは静かに口を開く。
「初めて君と出会って、一緒に遊んだ日……僕は、すごく楽しかったんだ。その首に巻いている毛皮、チロルだよね?」
ヴィクトルはそう言っていたずらっぽく笑う。
その途端、今まで必死に毛皮の振りをしていたチロルがびくりと反応してしまった。
「ど、どうしてわかったんですか……!? それに、変装してるのに私だってことも……」
緊張して毛を逆立てるチロルをなんとか宥めながら、オルタンシアはおそるおそるそう問い返す。
すると、ヴィクトルはおかしそうに笑った。
「だってその毛皮の模様、チロルそのものじゃないか! それに……どれだけ変装しても、君とチロルの気配はわかるんだ。安心して、他の皆は気づいていないようだったから」
一瞬、変装がバレバレだったのかと思いオルタンシアは焦ったが、どうやらオルタンシアの正体に気づいたのはヴィクトルただ一人だったようだ。
(ヴィクトル王子も王族で、きっと私やお兄様と同じくらい強い加護をもってるんだよね。だから、わかっちゃうのかな)
そう思うと少しだけ親近感のようなものを覚えて、オルタンシアは微笑む。
そんなオルタンシアに、ヴィクトルは静かに語り掛けた。
「……シア、また君に会えて……こうして話すことができてよかった。君は嫌がるかもしれないけど、僕は……今でも君のことを友達だと思っているよ」
ヴィクトルの言葉に、オルタンシアは静かに頷く。
今は表立って彼に近づくことはできないが、彼の気持ちは嬉しかった。
いつか、しがらみから解き放たれることができたなら……オルタンシアも胸を張って、彼の友人だと言える日が来るのかもしれない。
「……長々と話に付き合わせて済まなかった。僕はしばらくここにいるから、先に会場に戻っていてくれ」
「はい、ありがとうございます」
二人が一緒に戻れば、誰かが余計な詮索をするかもしれない。
ヴィクトルの気遣いをありがたく思いながら、オルタンシアは静かに一礼する。
だが、会場に戻ろうと一歩足を踏み出しかけたところで、背後から引き止めるような声が聞こえた。
「……シア、君は仮面舞踏会にはよく行くのかい?」
「いいえ、これが初めての参加です」
いきなりなんだろうと不思議に思いながらも、オルタンシアは振り返ってヴィクトルの問いかけに応える。
するとヴィクトルは少し逡巡した様子を見せながらも、声を潜めて口を開いた。
「それならよかった。でも、念のため伝えておくよ。……昔、君を誘拐したという邪教集団が最近また秘密裏に活動を再開したようだ」
「えっ……!?」
「しかも、貴族の中にも秘密裏に邪教集団と関わる者もいるらしい。……こういった舞踏会が、奴らの仲間を増やす温床になっているという話もある。君もお兄さんから聞いているかもしれないけど、十分気を付けて」
オルタンシアは自分の手足がすっと冷たくなっていくのがわかった。
だが、ヴィクトルの前でみっともない態度は見せられない。
「……教えて下さり、感謝いたします」
震える唇でそう礼を述べると、オルタンシアは今度こそバルコニーを後にした。