86 仮面の下の素顔
(こ、これはまさか……ダンスのお誘い!?)
今日のオルタンシアは、流行に乗り遅れないように仮面舞踏会の空気だけを楽しむつもりだった。
誰かと踊る予定などなかったのだ。だからいきなり、無言でダンスに誘われ焦ってしまう。
(どどど、どうしよう!?)
あたふたしていると、近くにいた貴婦人がこっそりと耳打ちしてきた。
「可愛らしいお嬢さん。仮面舞踏会ではすべてが一夜の夢。殿方に誘われたのなら、快く応じるのがマナーですのよ」
(そ、そうなのぉ!?)
それが真実なのかどうかは判断がつかなかったが、わざわざ仮面舞踏会に来ておいて断るのも失礼なのかもしれない。
(……大丈夫。相手には私がヴェリテ公爵家の娘だなんてわかりっこないんだから)
今のオルタンシアは完璧に変装しているのだ。一度だけ踊って、適当に姿をくらませれば問題ないだろう。
オルタンシアはおそるおそる目の前の青年の手を取る。
その途端、彼の仮面の下の口元が嬉しそうに弧を描いたのがわかった。
だが青年はそれ以上何も言うことはなく、オルタンシアの手を取って広間の中央へと繰り出していく。
(声を出さないってことは……相手も私と同じく、よっぽど正体を知られたくないのかな)
それなら好都合だ。お互いに余計な詮索はせず、さっさと踊ってさっさと分かれてしまおう。
そう思うと少しだけ心が軽くなって、オルタンシアは失敗しないようにと頭の中でアナベルのレッスンを反芻した。
(年は……たぶん私と同じくらいかな。でも会ったことはない人だよね)
穏やかな音楽に合わせてゆっくりステップを踏みながら、オルタンシアはちらりと目の前の青年を観察した。
彼の栗色の髪に見覚えはなく、少し大きめの仮面の下の素顔は窺えなかった。
あまりじろじろ眺めて素性を探ろうとするのも失礼だろう。
そう思いなおし、オルタンシアはダンスに集中しようとした。
曲調が変わり、少しだけテンポが速くなる。
オルタンシアは足がもつれないように必死に足を動かしたが……。
(すごい……この人、上手い……!)
目の前の青年は、動じることなくオルタンシアをリードしてくれている。
あまり経験がないオルタンシアでも、目の前の青年のダンスの腕前がかなりのものだということがすぐにわかった。
(前に踊ったお兄様と同じくらい上手……)
驚くオルタンシアに、彼はしてやったりとでも言いたげに口角を上げた。
そんな仕草がどこか子どもっぽく見えてしまい、オルタンシアはくすりと笑ってしまう。
(不思議な人……)
素性を探るのはよくないとわかっていても、彼はいったい誰なのだろうと思わずにはいられない。
結局、心配していたような失態を冒すこともなく、オルタンシアは彼のおかげで無事にダンスを終えることができたのだった。
「……ありがとうございました」
そう礼を言い、お辞儀をしてオルタンシアは彼の元を立ち去ろうとした。
だが踵を返そうとしたその時、彼は背後からオルタンシアの手を掴んだのだ。
「えっ!?」
ぐいぐいと、彼はオルタンシアの手を引っ張るようにしてどこかに連れて行こうとする。
「えっと、あの、私……」
オルタンシアは慌てて拒絶しようとしたが、その途端彼はオルタンシアの耳元で小さく囁いた。
「……大丈夫。少し話をするだけだから」
その声を聞いた途端、オルタンシアの記憶が刺激される。
(この声、どこかで聞いたことがある……?)
戸惑うオルタンシアに、彼は広間から続くバルコニーを指さして見せた。
どうやら、あそこで話そうということなのだろう。
躊躇と、好奇心と、真実を知りたいという欲求とが織り交ざり……オルタンシアがもたもたしている間にもうバルコニーの目の前へと着いてしまった。
青年はバルコニーへと続く扉を開け、オルタンシアを手招きした。
(最後は私の意思で来い、ということなのかしら……)
目の前の青年が誰なのかはわからない。だが、敵意は感じない。
むしろ、彼はオルタンシアに何かを伝えたがっているようにも見える。
オルタンシアは小さく息を吸い、意を決してバルコニーへと一歩足を踏み出した。
青年は後ろ手に扉を閉め、まっすぐにオルタンシアに向かい合う。
オルタンシアも黙って、仮面に隠された彼の顔を見つめ返した。
彼は小さく息をつくと、顔に手をやり素顔を覆っていた仮面と……栗色のウィッグを取って見せた。
その下から現れた素顔に、オルタンシアは思わず息を飲んでしまった。
(そんな、嘘……)
声を聞いた時、どうして気づかなかったのだろう。
一度目の人生で、オルタンシアは何度も成長した彼の声を聞いていたはずなのに……!
「ヴィクトル王子……!」
そこに立っていたのは、間接的にオルタンシアの処刑の原因となった人物――ヴィクトル王子だった。