80 お悩み相談室
「……お嬢様。ジェラール様くらいの年頃の御方なら、悩むことはたった一つ。それは……」
「それは……?」
どきどきと次の言葉を待つオルタンシアに、リュシアンはにっこりと明るい笑みを浮かべて告げた。
「それはもちろん、恋の悩みです!」
「え、えぇ……」
まったく予想外の答えに、オルタンシアは何て反応していいのかわからなかった。
そんなオルタンシアに、リュシアンは不思議そうに首をかしげる。
「おや、お気に召しませんでしたか?」
「お気に召すもなにも……それって、的外れじゃない?」
あのジェラールが恋に悩んでいるだと?
とてもじゃないが、オルタンシアにはそんな義兄の姿は想像がつかなかった。
「お兄様が、恋に悩むかなぁ……」
「ジェラール様とて人の子です。恋の一つや二つくらいするでしょう」
「どうだろう……」
リュシアンなら恋の一つや二つ……と言わずに一気に十人くらいの女性を手玉に取っているのかもしれないが、ジェラールを彼と同じように扱ってほしくはない。
「……前にね、ちょっとお兄様と話をしたことがあるの。その時、お兄様……しばらくは結婚の予定はないって言ってたよ」
しばらくどころか「誰かを娶る気はない」と口にしていたことは包み隠して、オルタンシアはリュシアンの言葉を否定するようにそう告げた。
だがリュシアンは、堪えた様子もなく笑っている。
「神に祝福されながら婚姻を結べるような、そんな相手ではなく……とても公にできるようなものではない、道ならぬ恋に悩んでいらっしゃるのかもしれませんよ?」
「結婚できない相手ってこと? もうご結婚されている貴婦人とか? でも、こんなこというのはなんだけど……お兄様がその気になれば、どんな相手でも振り向くような気はするんだけどな……」
たとえ相手が既婚者だろうが、ジェラールがその気になって愛の言葉でも囁けば、落ちない者はいないだろう。
政略結婚が基本の貴族間では、浮気を娯楽の一つとして寛大に扱う傾向もある。
ジェラールにとって、そこまで障壁にはならないような気がするのだが……。
うっかり彼が真顔で見知らぬ女性に愛を囁いている場面を想像してしまい、オルタンシアは少し気恥しくなって俯いた。
「ふふ……お嬢様は純情でいらっしゃるのですね」
「からかわないでよ……。ねぇ、リュシアンはお兄様の恋の相手に心当たりがあるの?」
彼がここまで自信満々に言うのだ。
もしかしたら、オルタンシアが知らないだけで「道ならぬ恋の相手」とやらが存在するのかもしれない。
問い詰めるような視線を投げかけると、リュシアンは食えない笑みを浮かべた。
「さぁ、どうでしょう?」
(うっ、この反応はどうなんだろう……。リュシアンのことだから、私をからかおうと適当なことを言ってるだけかも)
あまり、彼の戯れのような言葉は真面目に受け取りすぎない方がいいのかもしれない。
小さくため息をついたオルタンシアに、リュシアンはくすりと笑った。
「お嬢様は、恋をしたことがありますか?」
「えっ、ないよ」
一度目の人生でも、今でも、オルタンシアは生き抜くのに必死で恋をするどころではなかった。
曲がりなりにも酒場の歌姫の娘に生まれ、恋の駆け引きらしきものを目にしたことは一度や二度ではないのだが……どうしてもどこか自分とは遠い世界の出来事のように感じてしまう。
「そろそろ自分の結婚とかも考えなきゃいけないってことはわかってるんだけどね。でも、貴族の結婚に愛は必要ないともいうし」
「それは残念です。恋とは人生を彩る重要な要素の一つ。お嬢様、もしも望むのなら……」
リュシアンが静かに椅子から立ち上がる。
一体なんだろう、と顔を上げたオルタンシアの傍らに屈みこむと、彼はオルタンシアの髪を一房掬い取り、軽く口づけた。
「この私が手取り足取り、恋とはどんなものなのかをレクチャーして差し上げましょう」
耳元で甘く囁かれて、オルタンシアは思わず身をすくめてしまった。
(本当に、この人はっ……!)
なるほど。彼はこうやって戯れのように、何人もの女性を虜にしてしまうのだろう。
今だって何も本当にオルタンシアを口説こうとしているわけではなく、ただからかっているだけなのだ。
「……お兄様に言いつけるよ?」
「おっと、それはご遠慮願います。それこそ本当に、私の首と胴体が離れることになってしまいますので」
オルタンシアにじとりと睨まれたリュシアンは、おどけたように肩をすくめて一歩距離を取った。
「はいはい、おしゃべりはおしまい。仕事の続き、教えてね」
「承知いたしました」
恭しく礼をして、リュシアンは自分の席へと戻っていく。
その様子にほっとしながらも、オルタンシアは心の奥底に何かもやもやして思いを抱えていた。
(……どこまでが、冗談だったんだろう。お兄様が恋に悩んでいるっていうのは、本当に嘘……?)
なぜだか、リュシアンの出まかせだとは断言できなかった。
ジェラールは誰かに恋をしているのかもしれない。
そう思うと……少しだけ、胸が痛んだ。