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79 魔性の男

「というわけでね、お兄様のお仕事を手伝いたいの。ねぇリュシアン、こっそり教えてくれない?」

「これはこれは……なんとも美しい兄妹愛ですね」


 将を射んとする者はまず馬を射よ――アナベルから教えてもらった故事成語の通り、オルタンシアが訪れたのはジェラールの従者、リュシアンの元だった。

 ジェラールは口では「頼りにしている」と言いながらも、なかなかオルタンシアを公爵家の仕事に関わらせようとはしない。

 そこで、こっそりリュシアンの元で実績を積み、ジェラールを納得させるという手に出ようと思ったのである。

 門前払いされるかも……と危惧していたが、リュシアンは愉快そうな笑みを浮かべてオルタンシアを迎えてくれた。


「なるほど、お嬢様は少しでも兄君のお役に立ちたいと」

「そう思ってるんだけど……お兄様って、いつまでも私のこと子ども扱いするんだもの。だからリュシアン、こっそりお仕事をこなして、『実はこれ私がやったんです』ってお兄様に認めてもらうのよ」

「なるほど、ジェラール様に知られたら物理的に私の首が飛びそうなご提案ですね」

「さすがにお兄様でもそこまではしないと思うけど……」


 だが、断言はできない。

 オルタンシアも昔に比べれば、かなりジェラールの考えを推しはかれるようになった(つもり)だが、彼にはいまだに何を考えているのかわからないミステリアスな部分がある。

 物理的に首を飛ばす……ような真似はしないにしても、リュシアンに何か咎が及ばないとも限らないのだ。


「駄目……かな?」


 母直伝の上目遣いで頼むと、リュシアンはくつくつとおかしそうに笑う。


「まったく……お嬢様にそう頼まれると、お断りはできませんね」

「いいの!?」

「えぇ。ただし、決してジェラール様には悟られぬように」


 リュシアンはそっとオルタンシアの口元に、白手袋越しに人差し指を押し当てた。

 そして、誰をも魅了するような蠱惑的な笑みを浮かべて囁く。


「私たち二人だけの、秘密といたしましょう」

「う、うん……」


 なんだかいけないことをしているような気分になって、オルタンシアはどぎまぎしながら頷く。


「それではお嬢様、いつでもお待ちしております。ただし、兄君には見つからないように」

「あ、ありがとうリュシアン……」


 まるで逢引きでもするかのような響きに、オルタンシアは嫌な汗をかかずにはいられなかった。


(本当にリュシアンって、魔性の男って感じだよね……)


 公爵邸に仕えるメイドたちが、彼を巡って争いを繰り広げたという話も聞いたことがある。

 きっと彼は誰に対しても、このように勘違いさせるような言動が多いのだろう。


(でもお兄様が傍に置いているってことは、それだけ優秀なんだよね。そこは見習わないと……!)


 内心そんなことを考えるオルタンシアを、リュシアンはひどく興味深そうに見つめていた。



 そうして、オルタンシアはジェラールに秘密でこっそりリュシアンに師事を始めたのだった。

 普段のリュシアンは他人を惑わすような言動を繰り返し、あまり良い印象は持っていなかったのだが……確かに、仕事に関してはすこぶる優秀だと言わざるを得なかった。

 オルタンシアが苦労して書類を一枚さばく間に、彼は涼しい顔で10枚近くの書類を片付けていく。

 公爵領で過ごしている間もオルタンシアはコンスタンの仕事を手伝っていたが、あれはあくまで公爵家の膨大な仕事の一部分でしかなかったのだと思い知らされる。


(土地や財産にかかる税金、パン焼き窯や水車小屋の使用料……あっ、これはコンスタンに教えてもらったやつだ)


 向こうでコンスタンの仕事を手伝っていなければ、間違いなく太刀打ちできなかっただろう。

 びっちりと数字が埋められた帳簿を前に、オルタンシアは眉間に皺を寄せながら一つ一つの内容に視線を走らせる。


(公爵家に仕える者たちの給与は……うわっ、細かい……!)


 使用人一人一人の名前、階級、仕事内容や勤務実態などが書かれた紙を前に、オルタンシアは思わずため息をついてしまった。


(はぁ、てっぺんの見えない高い山を登ってる感じ……)


 うんうんと唸るオルタンシアに、さらさらと凄まじいスピードで書類をさばいていたリュシアンがくすりと笑う。


「幸いなことに、現在公爵家の財政状況はすこぶる好調です。公爵家がパトロンとなっている宝石細工師が新たなカッティング方法を生み出したことはご存じですか? 早くも社交界で注目されているようですし、流行すればますます公爵家の財政状況に潤いをもたらしてくれることでしょう」

「あっ、前にお父様がくださったネックレスの? 確かに綺麗だったよね」

「えぇ。お嬢様が広告塔となったことで、より注目の的となったようです」


(抜け目ないなぁ、お父様)


 娘の社交界デビューという場をちゃっかり新商品の宣伝に利用した父に、オルタンシアは思わずくすりと笑ってしまった。

 そんなオルタンシアを見て、リュシアンはにやりと笑う。


「ですから、お嬢様が財政状況をお気になさる必要はございませんよ。お嬢様が新たな宝石やドレスをねだったところで、公爵閣下はうまく公爵家の財を成す方向に利用するだけです。お嬢様はこんなつまらない帳簿など気にせずに、のびのびと過ごしていただければ十分かと」

「別に、公爵家が破産するんじゃないかって心配してるわけじゃないの。ただ、少しでもお父様やお兄様の負担を減らしたいだけ。お兄様、最近また調子悪そうにしてるし……」


 オルタンシアがそう零すと、リュシアンは珍しくことりとペンを置いた。

 他愛ない会話を交わしながらもさらさらと動いていた彼の手の動きが止まったことに、オルタンシアはおや、と目を丸くする。


「どうしたの? もしかして、リュシアンもお兄様の不調に気づいて――」

「えぇ。これでも、ジェラール様のお傍に侍ることを許していただいている身ですから」


 やはり、彼の不調は近くにいる人間なら気づいてしまうほどにあからさまなのだ。


「お兄様、やっぱりお仕事が大変なのかな……」

「どうでしょうか。ジェラール様は何につけても天才肌で器用な方です。仕事に忙殺され体調を崩しているというよりも……何か、思い悩むようなことがあるのかもしれませんね」

「え?」


 リュシアンの分析に、オルタンシアは驚いて顔を上げる。


「お兄様が何か大きな悩み事を抱えてるってこと?」

「可能性として、否定はできないかと」

「あのお兄様が体調を崩すほど悩むことって何だろう……。まさか、騎士団でパワハラを受けていたり……」


 蒼白になるオルタンシアに、リュシアンはくつくつと笑う。


「ヴェリテ公爵家のご令息――それもあのジェラール様にパワハラを働けるような者がいたら是非お目にかかりたいですね」

「え、違うってこと?」

「お嬢様。お嬢様の目にはジェラール様が静かに耐え忍ぶような御方に見えますか?」

「うーん……」


 確かに、上司だろうが何だろうがジェラールが黙って理不尽な叱責を受けたりするような姿はなかなか想像がつかない。

 そもそも、ジェラールが叱責を受けるようなミスを犯すこと自体考えづらい。

 ということは……パワハラの線は可能性が低いと考えてよいだろう。


「じゃあ、お兄様は何に悩んで……リュシアンは、心当たりがあるの?」


 先ほどからリュシアンは、何かと思わせぶりな態度を見せている。

 いつもそんな感じだと言われればそうなのだが、オルタンシアは藁にもすがる思いでリュシアンへと問いかけた。

 すると彼は、真っすぐにオルタンシアを見つめて愉快そうに笑う。

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