76 お兄様、不機嫌になる
屋敷に戻り、酒が回ったのかおぼつかない足取りのオルタンシアをお付きのメイドに任せ、ジェラールは小さく息を吐いた。
公爵家の教育の賜物か、社交の場では淑やかな公爵令嬢として文句のない振舞いをしてみせたオルタンシアだが、こうしてみるとやはりまだ社交界に出すのは早いのではないかと思えてしまう。
まだあどけなさを残した笑顔や、何かあるたびに不安げに揺れる瞳、こうして簡単に酔っぱらってふらふらになってしまうところなど、ジェラールから見れば無防備だという他ない。
今日も数多の貴族がオルタンシアに取り入ろうとうじゃうじゃと湧いてきたのだ。
ましてや「傷物」などと罵るとは、命知らずにもほどがある。
受けた侮辱はいずれきっちりと贖わせてやるとして、それよりもジェラールには気にかかることがあった。
それは――。
「お帰りなさいませ、ジェラール様」
不意に背後から声をかけられ、ジェラールはゆっくりと振り返る。
そこには、ジェラールの従者であるリュシアンがうやうやしく頭を下げていた。
「想定よりも早いお戻りでしたね。何か予定外のことでもありましたか?」
「何も問題はない。すべての工程はつつがなく完了した」
「それはそれは何よりです。私はてっきり……お嬢様が王子殿下に見初められたりという、愉快なハプニングが起こったのかと期待していたのですが」
リュシアンのからかうような言葉に、ジェラールは思わず足を止めてしまった。
王宮から戻る直前に、父が耳打ちした言葉が蘇る。
――「王子殿下がオルタンシアを探しているようだ。だが、今の状態で殿下に会わせるのは酷だろう。悪いが、先にオルタンシアを連れて屋敷に戻っていてくれ」
以前ヴィクトル王子に遭遇した時、オルタンシアはひどく怯えていた。
彼女が精霊界に出向いた時に、偶然王子に出会ったということは聞いているが……あの怯え方は尋常じゃなかった。
ヴィクトル王子がオルタンシアに興味を抱いているのは確実だろう。
数年ほど領地に避難させたことで、王子の興味が削がれることを期待していたが……どうやらそううまくはいかなかったようだ。
……ヴィクトル王子とオルタンシアのことを考えると、不思議と嫌な胸騒ぎに襲われる。
王族に見初められることなど、公爵家の益を考えれば喜ばしいことだ。
頭ではそうわかっていても……虫唾が走りそうなほど不快な感情が胸を支配するのだ。
――「お……お兄さま! 助けてください!! 冤罪です! 私は暗殺など企んではおりません!!」
いつか夢の中に現れたオルタンシアの泣き顔と、今夜見たばかりの彼女の顔が重なる。
その途端ずきりと頭が痛み、ジェラールは額を押さえた。
「おや、ジェラール様。どこか不調でも?」
「……いや、なんでもない」
小さくため息をつくと、リュシアンはどこか愉快そうに続けた。
「しかし……お嬢様もいよいよ社交界デビューですか。美しく聡明なお嬢様のことです。きっと国中の貴公子が放っておかないでしょう。ジェラール様も兄君として気が気じゃないでしょうね」
「どうするのかはオルタンシアが決めることだ。あいつは自分の進む道を決められないほど馬鹿じゃない」
「ふふ、オルタンシア様のことを信頼していらっしゃるのですね。何と美しい兄妹愛でしょう!」
芝居がかった口調でそんなことをのたまうリュシアンを冷めた目で見つめ、ジェラールはくるりと彼に背を向けた。
「……用がないのなら部屋に戻るぞ」
「おっと、長々と引き止めてしまい申し訳ございません。それにしても……今のお嬢様なら、それこそ王子殿下に見初められてもおかしくはないですね。お二人は年も近く、身分も釣り合っている。そんな二人が並び立つ姿はさぞやお似合いでしょう」
ジェラールは舌打ちしたくなるのを寸でのところで堪えた。
「お嬢様にとっても、妃として王家に迎えられる以上の幸せはないでしょう。ジェラール様も兄として鼻が高いのでは?」
……リュシアンの話はただの世迷言だ。
真面目に聞く必要など微塵もない、低俗な与太話でしかない。
ジェラールはそう自分に言い聞かせ、小さく息を吸って気を落ち着かせる。
……そうしなければ、内側から自分でも制御できないような黒い感情が溢れ出してしまうような気がした。
「…………仮定の話に興味はない」
それだけを告げると、ジェラールは今度こそリュシアンの前から立ち去った。
幼いオルタンシアの笑顔と、夢の中のオルタンシアの涙。
美しく成長したオルタンシアと、彼女の横に立つヴィクトル王子。
そんな幻想が頭をよぎり、ジェラールは自分でも驚くほど不快な気分になっているのに気が付いた。
「……決めるのはオルタンシアだ」
彼女が自分の進むべき道をどう決めるのか、ジェラールは(彼女に害をなすものを排除しつつ)静かに見守るつもりであった。
だがもしも、オルタンシアがヴィクトル王子の手を取ると決めた時に……素直に祝福できる気がしないのも確かだった。