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75 お兄様に、幸せになってほしいな



「お兄様、ごめんなさい……私…………」


 縋るように、オルタンシアはジェラールの背中に額を押し付ける。


「お前が気にする必要はない」


 ジェラールの声は普段と変わりなく、感情の乱れを感じさせなかった。

 それでも、オルタンシアが彼の心の奥深くに無遠慮に触れてしまったのは確かなのだ。


「私、私……お兄様のお気持ちも考えないで、ひどいことを……」

「お前がそう考えるのは当然だ。教師の教育はうまくいっているようだな」


 いっこうにオルタンシアを責めようとしないジェラールの態度に、涙がこみあげてくる。

 ぐずぐずと鼻をすすっていると、ジェラールが呆れたように告げた。


「おい、泣くな。戻った時に不審に思われる」

「うぅ……」


 オルタンシアはなんとか涙と鼻水を止めようと頑張ったが、あまり成果はなかった。

 そのうちに、ジェラールの呆れたようなため息が聞こえ、思わず体が凍り付く。


(お兄様に、失望されちゃった……)


 なんて面倒で愚かな奴だと、呆れられてしまったのだ。

 ジェラールがこちらを振り返ったのがわかったが、オルタンシアはかたかたと震えたまま顔をあげることはできなかった。

 ジェラールがそっとオルタンシアの肩に手を置いた。

 いよいよオルタンシアを突き放す言葉が降って来るかと思いきや――。


「……そんなに泣くな。お前に泣かれると、どうしていいのかわからない」


 優しく抱き寄せられ、オルタンシアはひどく驚いてしまった。


「お兄様……怒って、ないんですか……?」

「何故怒る必要がある。お前は間違ったことを言っているわけではないだろう」


 ジェラールは怒っているわけでも、呆れているわけでもなかった。

 それがわかった途端に安心して、オルタンシアはぐりぐりとジェラールの胸元に額を押し付けた。


(私が知らなかっただけで、お兄様はずっとつらい思いをしていたんだ……)


 一度目の人生で、オルタンシアの目に彼はただ冷酷な人間として映っていた。

 だが、その心の奥底では様々な思いが渦巻いていたのだろう。


(お兄様に、幸せになってほしいな……)


 オルタンシアは心の底からそう思っていた。

 彼にとっての幸せが、どこにあるのかはわからない。

 だが何か自分にできることがあるのなら、何でもしてあげたい。

 そんなことを考えながら、オルタンシアはぎゅっとジェラールの服の裾を掴んだ。


 ジェラールも、オルタンシアも、しばらくの間何も言わずにそうしていた。

 やがて遠くから誰かの足音が近づいて来て、オルタンシアははっと我に返る。


(わわっ、今の私すごくみっともない顔してない!?)


 ぐずぐず泣いていたせいで、きっとひどい顔をしていることだろう。

 こんな顔を誰かに見られてしまったら、せっかく社交界デビューを失敗せずこなしたのが無駄になってしまう。

 おろおろするオルタンシアに、ジェラールは小声で告げる。


「俺の陰に隠れていろ」

「はっ、はい!」


 辺りは薄暗く、ジェラールの陰に隠れていればよほど近づかれない限りオルタンシアの顔を確認することなどできないだろう。

 オルタンシアがこそこそとジェラールの陰で身を縮こませるのと同時に、足音の主が姿を現した。


「ここにいたのか……ジェラール、オルタンシア」

「お父様!」


 オルタンシアは現れた人物にほっとしながら顔を出した。

 やってきたのは二人の父だった。

 彼は二人が揃っているのを見て表情を緩めた後、何やら表情を引き締めジェラールを呼ぶ。

 父が何か耳打ちすると、ジェラールが不快そうに眉をしかめたのがわかった。


(なんだろう。あんまりいい話じゃなさそうだけど……)


 黙って様子を窺うオルタンシアの方へちらりと視線をやったかと思うと、ジェラールがこちらへ近づいてくる。

 そして、オルタンシアの手を取って告げた。


「帰るぞ」

「…………え!? でも、まだ舞踏会の途中じゃ――」

「顔見せは済んだ。ここで引き上げても問題はない。それに、そんな顔で皆の前に出ていくつもりか」

「うっ……」


 やはり、今のオルタンシアはよほどみっともない顔をしているのだろう。

 恥ずかしくなって俯くと、近づいてきた父が励ますようにオルタンシアの肩に手を置く。


「オルタンシアも疲れただろう。後のことは私に任せて、ジェラールと二人で先に屋敷に戻っていてもらえるかな」

「……はい、お父様」


 何があったのかよくわからないが、二人がそう言うのだ。

 オルタンシアは素直にその言葉に従った。


 ジェラールはほとんどひとけのない通路を進み、オルタンシアもみっともない顔を衆人に晒すことなく公爵家の馬車まで戻ってくることができた。

 オルタンシアが乗り込むと、すぐに馬車は動き出す。

 そっとカーテンの隙間から遠ざかる王宮を眺めながら、オルタンシアはほっと息を吐いた。


(とりあえず社交界デビューは成功……で、いいのかな……?)


 完全なる成功とは言い難いかもしれないが、少なくともひどい失態はせずに、周囲に悪印象も与えていないはずだ。

 とりあえず一大行事が無事に済んで、オルタンシアは力が抜けてしまった。


(はぁ、安心したらなんだか眠くなっちゃった)


 うとうとと眠気に襲われたオルタンシアは、うっかり隣に座るジェラールの肩にもたれかかってしまっていた。


「…………はっ!」


 やがて自分が何をしているのかに気が付いて、オルタンシアははっと飛び上がる。


「ご、ごめんなさいお兄様……私――」

「別にいい。そのまま寝てろ」

「わっ」


 慌てて謝ったが、ジェラールは怒るでもなく逆に自分の方にもたれかからせようと、オルタンシアの肩を引き寄せたのだ。


(こ、こんな状態じゃ眠れません……!)


 緊張のせいか、ドキドキと鼓動が早鐘を打ちとても眠れるような気分にはなれなかった。

 それでも彼の行為を無下にもできず、オルタンシアは目を瞑って必死に寝たふりをするのだった。


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