<< 前へ次へ >>  更新
72/77

72 こんなことくらいで、傷つくなんて

「お父様!」


 現れたのは、オルタンシアとジェラールの父――ヴェリテ公爵だった。

 彼はこの場に漂う変な空気をものともせずに、朗らかな笑みを浮かべてこちらへやって来る。

 彼はオルタンシアの目の前までやって来ると、嬉しそうに目を細めた。


「よく似合ってるよ、オルタンシア。さすがは私の娘だ。皆さま、私の愛娘……オルタンシアの門出を祝ってくださること、心よりお礼申し上げます」


 父がまったく空気を読まずにそう告げると、やっと周囲の者たちにも笑顔が戻り始めた。

 例の貴公子の親族がおずおずと先ほどの事情を説明しても、父は笑顔で「いやぁ、どうにもジェラールは妹が可愛くて仕方がないようでして。ついつい審査が厳しくなってしまったのかもしれませんな」と冗談まで言ってみせたのだ。

 いっきに場の空気が和らぎ、オルタンシアは舌を巻いた。


(さすがはお父様……。空気が読めないんじゃなくて、あえて空気を読まないんだ……!)


 その堂々たる態度に、オルタンシアは感心した。

 オルタンシアが彼のようになるには……果たして何十年かかるのだろうか。


 父を中心として、会話に花が咲き始める。

 彼は自然な流れでオルタンシアを周囲に紹介しつつ、会話の主導権を握っていた。

 オルタンシアはただ微笑んで相槌を打っていれば、なんとかなりそうだ。


(やっぱりお父様はすごい……。よし、これならこの隙に……!)


 オルタンシアは精神を集中させ、女神の加護を発動させる。


(『聞き耳』!)


 聴覚が研ぎ澄まされ、通常では聞こえないような遠くの会話が一斉に聞こえてきた。


『あれがヴェリテ公爵家の――』

『先ほどのジェラール様を見ました?』

『ずいぶんと妹君を可愛がっていらっしゃるのね……』


 すぐに自分に関する会話が耳に入り、オルタンシアは内心で苦笑した。

 ちらちらと相手を変えつつ会話を盗み聞きしてみたが、今のところオルタンシアの評判はおおむね良いようだ。


(よかった……。社交界デビューで失敗したら、洒落にならないもんね……)


 だがほっとしたのも束の間、耳に入ってきた言葉に心臓がどくりと音を立てた。


『でも妾の子なんだろ?』

『公爵に認知されてれば同じだろ。うまく取り入れば逆玉の輿だ』

『でもさっきは誰とも踊らなかったじゃないか』

『高嶺の花気取りなんだろ。どうせそのうち自分の立場を思い知るって。なんていっても、邪教集団に誘拐された傷物なんだから』


 ――「邪教集団に誘拐された傷物」


 その言葉を聞いた途端、目の前が真っ暗になったような気がした。


(落ち着いて……そう考える人がいるってことも、わかっていたじゃない……)


 オルタンシアだって、周囲が自分のことをそう思ってもおかしくないということくらい予想はしていた。

 公には発表されていないとはいえ、オルタンシアは邪教集団に誘拐されたのは知る人ぞ知る公然の事実だ。

 その後数年間社交界から姿を消していたこともあり、憐れみや奇異の目で見る者がいてもおかしくはない。

 だが、それでも――。


(駄目だな……私。こんなことくらいで、傷つくなんて……)


 どれだけ教養を身に着けても、なかなか心まで強くなるというのは難しい。

 あんな風に「傷物」と噂されているのを聞いてしまうと、あの時の光景が蘇り息が詰まりそうになってしまう。

 うっかり表情が曇りそうになるのを、オルタンシアは必死に作り笑いを浮かべて耐えていた。

 貴族社会は騙し合い化かし合いが日常茶飯事だ。

 淑女たるもの常に微笑みを浮かべ、本心を悟られてはいけないと、アナベルもレッスンの才に口酸っぱく繰り返していた。


(笑顔、笑顔……)


 オルタンシアはズキズキと痛む心を隠しながら、幸せそうな笑みを周囲に振りまいていた。

 幸いにも、周囲の者は誰もオルタンシアの異変に気が付いていない。

 そっと周囲を見回すと、不意に義兄ジェラールと目が合った。

 オルタンシアと目があった途端、氷のように無表情だったジェラールの表情が途端に険しくなる。

 更には足早にジェラールがこちらに近づいてきたので、オルタンシアは焦ってしまった。


(えっ、どうしたの……? まさか私、知らない間にとんでもないマナー違反でもやっちゃってた!?)


 ずんずんと近づいてきたかと思うと、ジェラールはぽん、とオルタンシアの肩に手を触れ、傍らに父へ告げた。


「父上。オルタンシアの顔色が優れないので、少し休ませます」


 その言葉に一番驚いたのはオルタンシアだ。

 取り繕えていると思っていた。実際に、誰にも気づかれていなかったのだ。


 ……ジェラール以外には。


 父は一瞬驚いたような顔をすると、すぐに朗らかな笑みを浮かべる。


「おぉ、それは気づかなくて済まなかったね。初めての舞踏会でオルタンシアも緊張したことだろう。ゆっくりと休んでおいで」


 その言葉を聞くやいなや、ジェラールはオルタンシアの背を押すようにして歩き始めた。


「行くぞ」

「は、はい……!」


 オルタンシアは言われるがままに、おっかなびっくり足を動かした。

【コミック発売のお知らせ】


10月28日に本作のコミカライズ1巻が発売します!

オルタンシアとお兄様の物語が山いも三太郎先生の絵で生き生きと描かれております!

ぜひお手に取っていただけると嬉しいです…!

挿絵(By みてみん)

<< 前へ次へ >>目次  更新