70 ファーストダンス
ジェラールに手を取られ、オルタンシアはそっとステップを踏み始める。
だが、ものの三秒ほどで驚いてしまった。
(お兄様上手すぎっ……! ダンスの先生より上手いってどういうこと!?)
ほんの数秒、軽くリードされただけでも、オルタンシアはジェラールの技術が卓越したものであることに気づかずにはいられなかった。
(お、お兄様って本当に何でもできるんだ……)
公爵邸の教師たちにジェラールの優秀さは耳にタコができるほど聞いていたが、どうやら彼の万能っぷりはこちらの方面においても健在だったようだ。
むしろオルタンシアが変に上手く踊ろうと気を張るよりも、力を抜いて彼に身を任せていた方がいいだろう。
オルタンシアはほっと安堵の息を吐いた。
しかし……くるり、くるりとターンを繰り返すたびにちらちらと周囲の観客の視線を意識してしまう。
その中に見知った顔を見つけ、オルタンシアは慌てて視線を逸らし目の前の兄を見つめた。
思ったよりも至近距離に彼の整った顔があり、今更ながらに動揺してしまう。
(うわっ、これは顔面国宝……! お兄様って、本当に綺麗な顔してるよね……)
一度目の人生でも彼は美しい人だと思っていたが、それよりも恐ろしさが勝っていた。
もちろん正面から顔を合わせるなんて恐ろしい真似ができるはずもなく、オルタンシアはそこまでジェラールの美貌を意識することはなかった。
しかしこうあらためて至近距離でジェラールの顔を目にすると……まさに神に愛されたとしかいうほかない、誰もが目を奪われずにはいられない美しさに驚いてしまう。
文武両道で家柄もこの国では最上級、おまけにこの美貌だ。
きっと結婚適齢期の女性であれば誰もが、ジェラールを放っておかないことだろう。
(婚約の話とかも……来てないわけないよね……)
先ほどの「この中の誰かと婚約しているのでは……?」というのは勘違いだったが、実際に彼がどこかのご令嬢と婚約する日も遠くはないだろう。
そう考えた途端、急激に寂しさのような感情が襲ってきて、オルタンシアはジェラールの顔が見られずに視線を下げてしまった。
だが、それがいけなかった。
気がそぞろになっていたせいでうっかり足がもつれ、バランスを崩してしまったのだ。
(うそ、転ぶっ……!)
オルタンシアはとっさに目の前の兄に手を伸ばそうとした。
だがその途端、忌まわしい記憶がフラッシュバックする。
――「黙れ、公爵家の恥さらしめ。……俺は一度たりとも、お前を妹などと思ったことはない」
どれだけ泣いて助けを求めても、手を伸ばしても、届くことなく拒絶された。
あの時の光景が、投げつけられた冷たい言葉が鎖のように絡みつき、オルタンシアの動きを鈍らせる。
なすすべもなく、凍り付いたように、世界がひっくり返るのを眺めているしかないと思われたが――。
「わっ!?」
急にぐい、と引っ張られたかと思うと、ごくごく自然な仕草で抱き寄せられ、オルタンシアは気が付いたらダンスの動きの中に引き戻されていたのだ。
オルタンシアにとっては果てしなく長く感じられたが、時間にすればほんの数秒の出来事だった。
きっと傍から見れば、ダンスの動きに紛れてオルタンシアが転びかけていたことにも気づかないほどだろう。
「あ、ありがとうございます……」
まだ心臓がバクバクと高鳴っている。とりあえずオルタンシアが小声で礼を言うと、ジェラールはじっとオルタンシアを見つめ……至極真面目に口を開いた。
「もう少し体幹を鍛えた方がいい」
「は、はい……」
義兄からの大真面目なアドバイスに、ぽかんとしていたオルタンシアは一拍遅れてくすりと笑う。
(ふふ、体幹を鍛えた方がいい、かぁ……。真面目なお兄様らしいアドバイスですね)
なんだか愉快な気分になって、体が軽くなったような気すらする。
大丈夫。たとえオルタンシアがふらついても、今はジェラールが支えてくれるのだから。