69 頼りにしてます、お兄様
宮廷楽団の奏でる優雅な音楽と共に、社交界へデビューする少女たちとパートナーは大広間へと入場を果たした。
会場に足を踏み入れた途端、真昼の太陽のように輝く照明に目がくらんでしまいそうになる。
それでもオルタンシアはしっかりと前を向いて、一歩一歩足を進めていく。
ちらりと会場の奥……王族のために用意された席へと視線をやると、一度目の人生の記憶の通りに成長したヴィクトル王子の姿が見えた。
その途端に心臓がバクバクと嫌な音を立て、オルタンシアは慌てて視線を逸らす。
(……大丈夫、今日はお兄様も隣にいらっしゃるんだもの。こんなことで動揺してたら余計に変な失敗をしてしまうわ。平常心、平常心……)
オルタンシアは何とかまっすぐ前を向いて、平静を保とうとした。
だがジェラールが隣にいるからか、それとも一度表舞台を退いた、謎の多い公爵令嬢の登場に興味を引かれたのか。
とにかく、四方八方からビシバシと視線が突き刺さり、オルタンシアは自分が嫌な汗をかいているのに気付いた。
(久しぶりだな、この感覚……)
社交界とは、こういう場所なのだ。
一度目の人生で、オルタンシアはこの空気に馴染めず、ひたすらに逃げ続けていた。
二度目の人生では一度目の失敗を活かし、早くから社交界に馴染もうと努力したが……邪神崇拝の教団に誘拐されるという予期せぬアクシデントが発生してしまった。
それでもめげずに社交界に復帰しようとしたが、今度は一度目の人生で処刑される原因となったヴィクトル王子と出会ってしまい、結局は長い間身を隠すことになってしまった。
(どうすれば正解かなんてわからない。でも、あのまま引きこもってお兄様やお父様を救えなかったら、絶対に後悔することだけはわかる)
だから、オルタンシアは戻ってきたのだ。
貴族の陰謀渦巻く、社交界という名の戦場に。
(大丈夫、私は変わった)
そう自分に言い聞かせ、数多の好奇の視線に晒されながらも、オルタンシアは微笑んでみせる。
もう前のように、何もわからず罠に嵌められるだけの哀れな自分ではない。
うまく社交界を立ち回り、処刑を回避し、兄や父を守らなくては……!
(そのためには、まずはこの社交界デビューを成功させないと……)
まかり間違っても、こんな公然の場で無様な姿は見せられない。
緊張で震えそうになる足を叱咤して会場の中ほどまで進み、オルタンシアはいよいよジェラールと向かい合った。
(お兄様が踊っている所なんて見たことないけど……大丈夫、だよね……?)
彼が無様に転倒するところなんて、とてもじゃないが想像もできない。
ちらちらと窺いみるオルタンシアの態度をどう思ったのか、ジェラールは周囲に聞こえないように顔を近づけ、囁いた。
「緊張しているのか」
「はひゃっ!?」
思わず小さく悲鳴を上げると、彼は少しだけ驚いたように目を丸くした。
「……大丈夫か」
「だ、大丈夫……です……」
震えながらバレバレの嘘をつくと、ジェラールが不快そうに眉根を寄せる。
(お、怒らせちゃった……?)
ますます小さくなってぷるぷると震えるオルタンシアの手を、ジェラールがそっと引く。
とっさに前のめりになりかけたオルタンシアを軽々と抱き留めると、ジェラールは耳元で囁いた。
「……周りのことなど気にするな。すべて俺に任せておけば問題ない」
その言葉に、オルタンシアは驚きに息を飲んだ。
(私のこと、心配してくれてたんだ……)
どうやら彼が怒っているわけではないとわかって安堵すると同時に、心の奥底から嬉しさがこみあげてくる。
「……はい! 頼りにしてます、お兄様」
小声でそうお礼を言って微笑むと、ジェラールの纏う空気が和らいだのを感じた。
(ふふ、私もだいぶお兄様のことわかるようになってきたよね。お兄様検定があれば一級が取れるんじゃないかな?)
そんなことを考えているうちに、いよいよ楽団が曲を奏でだす。
社交界へと足を踏み入れる少女たちの、最初のダンスが始まったのだ。