66 ありがとう、お兄様
――「私も、お父様とお兄様の家族のつもりですから」
オルタンシアが決死の思いで口にした言葉だったが、ジェラールは表情を変えず、何も言わない。
彼の氷のような冷たくも美しい顔を見ていると、オルタンシアの脳裏に嫌な記憶が蘇る。
――「黙れ、公爵家の恥さらしめ。……俺は一度たりとも、お前を妹などと思ったことはない」
まるで呪いのように、何度も何度もその言葉が耳の奥にこだまする。
あの時と今は違う。二度目の生を得たオルタンシアは、前回の失敗を活かし義兄ジェラールとも良好な関係を築いてきたはずだ。
……そう自分に言い聞かせても、心の奥底にくすぶった不安が頭をもたげるのだ。
何かの拍子にオルタンシアを取り巻く世界が昔のように戻ってしまうのではないか、目の前の義兄から再び突き放されるのではないかという恐怖が拭えない。
背筋を冷や汗が伝う。
たった数秒の時間が、永遠のように感じられる。
表情をこわばらせるオルタンシアに、ジェラールは温度を感じさせない声で告げた。
「家族のつもり、なのか」
その言葉に、オルタンシアはひゅっと息をのむ。
今までの暖かな思い出が、記憶が凍り付いていく。
……本当の家族になれたと、そう思っていたのはオルタンシアの方だけだったのだろうか。
やはり彼は一度目の人生と同じように、妾腹の得体の知れない娘を家族として受け入れることなど――。
思わず俯いたオルタンシアの視界が暗くなる。
何事かと視線を上げると、ジェラールがぬっとこちらに向かって手を伸ばしてきたところだった。
ひっと息をのむ暇もなく――。
「わっ!?」
ぐしゃぐしゃと髪を乱すように頭を撫でられ、オルタンシアは素っ頓狂な声をあげてしまった。
「お、お兄様……?」
「家族のつもりではない。家族だ」
「え…………?」
目を丸くするオルタンシアに、ジェラールは少しむっとしたような表情で告げる。
「お前はヴェリテ公爵家の人間で、俺と父上の家族だ。何度もそう言っただろう」
その言葉に、オルタンシアは息をのむ。
ジェラールは相変わらず感情の読めない表情で、真っすぐにオルタンシアを見つめている。
「そういう弱気な態度を見せればすぐに付け入られる。社交界に踏み出すというのならもっと自信を持って胸を張れ。それができないのなら――」
「だ、大丈夫よお兄様……!」
ジェラールが珍しく説教じみたことを言い出したので、オルタンシアは慌ててぶんぶんと両手を振って彼を制止した。
……ここが暗くてよかった。
そうでなければ、頬が緩んで仕方がないのがばれてしまうだろうから。
(……そうだよね。いつまでも過去ばかり振り返ってないで、『今』のお兄様と向き合わなきゃ)
きっと過去の記憶はこれからもオルタンシアを苦しめるだろう。
だが、足を取られてばかりではいけない。
きちんと、前を向いていかなくては。
「ありがとう、お兄様。私、お父様やお兄様に恥をかかせないように頑張りますね!」
「……危なっかしいな」
「そんなことないです! ちゃんと華麗に社交界デビューを飾ってみせますから!」
オルタンシアが元気よくそう宣言すると、ジェラールは少しだけ表情を緩めた。
「……無理だけはするなよ」
「はい! もちろん、お兄様も無理はダメですよ。最近はちゃんと寝てますか? お兄様って少し目を離すとすぐ不摂生な生活を送ってそうで――」
公爵邸の庭園に、楽しそうなオルタンシアの声が響く。
久方ぶりの公爵令嬢の帰還を知らせるような明るい声に、公爵邸の者たちは知らず知らずのうちに表情を和らげるのだった。