58 しばしのお別れを
再びオルタンシアは屋敷の中へ閉じこもり、公爵領行きの準備を進めていた。
兄が全寮制の学院へ進学するのとほぼ同時に、オルタンシアもこの屋敷を発つことが決まっている。
(そう考えると、お兄様とこんな風に一緒に居られるのもあと少しだけか……)
オルタンシアは少しの寂しさを覚えながら、横目でちらりと散歩に付き合ってくれているジェラールを眺めた。
『おいっ、もっと優しく抱っこしろ! 僕の内臓が出たらどうするんだ!!』
「……威勢のいい猫だな。だが、もう少し躾をした方がいい」
フシャー! と短い前足でジェラールを引っ掻こうと足掻くチロルと、そんなチロルを握りつぶすのではないかとひやひやするような持ち方をしているジェラール。
そんな一人と一匹の微笑ましい(?)光景を見て、オルタンシアは頬を緩めた。
「ふふ、チロルにもよく言っておきますね。それで……お兄様は、もう学院へ行く準備は終わったんですか?」
「あぁ、とっくの昔に済ませている」
(さすがだなぁ……)
今もパメラと二人、荷造りに追われているオルタンシアとしては、感心してしまうほどだ。
……彼はいつもそうだった。完璧で、他者の助けなど必要とはしないのだ。
そんな彼のことだから、しばらく会わなかったらオルタンシアのことなど忘れてしまうかもしれない。
急にそんな思いに駆られて、オルタンシアはおずおずと口を開く。
「あの……お兄様。お兄様が学院へ行ったら、手紙を書いてもいいですか……?」
ジェラールは足を止めなかった。オルタンシアの方を振り向きもしなかった。
だが、確かに彼は、オルタンシアの問いかけに答えてくれた。
「構わない」
「……ありがとうございます、お兄様!」
オルタンシアは嬉しくなって何度も何度もお礼を言った。
(たくさん手紙を送っていれば、きっとお兄様も私のこと覚えていてくれるよね……)
彼の返事を貰いたいなどと大それたことは願わない。
ただ、送られてくる手紙をジェラールが目にして、少しでもオルタンシアの存在を忘れずにいてくれればそれでいいのだ。
「私、いっぱいお手紙書きますね!」
「……あぁ」
ジェラールの返事はいつも通り素っ気ないものだったが、オルタンシアの心はぽかぽかと温かかった。
慌ただしく日々は過ぎていき、あっという間にジェラールが発つ日がやってきてしまった。
「ぐすっ……お兄様、お元気で……」
感極まったオルタンシアは早々にぐすぐすと泣いていたが、ジェラールの方はいつもと変わらず涼しい顔をしていた。
「ほら、オルタンシア。せっかくのジェラールの門出だ、笑顔で見送ってあげようじゃないか」
「はい、お父様……」
ずびずびと鼻をすすりながら、オルタンシアは懸命に顔をあげた。
「お兄様っ……! どうか……お元気でいてくださいね!」
「……あぁ」
「寝る時は体を冷やさないようにしてくださいね!?」
「……わかった」
「甘いものを食べた後はちゃんと歯磨きをしてくださいね……!」
「……了解した」
亡き母に言い聞かせられていた生活の基礎についてジェラールに伝授していると、苦笑した父がオルタンシアを抱き上げてくれる。
「はは、オルタンシアはしっかり者だね。ジェラール、どうか君の可愛い妹を悲しませることがないように頼むよ」
ジェラールは小さく頷いた後、一歩距離を詰めて真っすぐにオルタンシアを見つめた。
「お前も……」
「は、はい……」
「お前も、気を付けろ。面倒な奴がいたらすぐに周りに始末を頼め。ヴェリテ公爵家なら簡単にもみ消せるから心配はするな」
(どんなアドバイス!?)
斜め上の恐ろしいアドバイスに震えあがっていると、いよいよ出発の時間になってしまった。
ジェラールが馬車に乗り込み、ゆっくりと扉が閉められる。
「いってらっしゃい、お兄様……! どうか、お元気で……!」
ゆっくりと馬車は走り出し、オルタンシアは懸命に遠ざかっていく馬車に向かって叫んだ。
やがて馬車は見えなくなる。そうなるとしばらくジェラールに会えないんだという寂しさがこみ上げ、オルタンシアはまたしても涙ぐんでしまった。
「……よく頑張ったね、オルタンシア。ジェラールなら大丈夫だ。さぁ、さっそくあの子に手紙を書こうか。早ければ、ジェラールの到着よりも先に学院に着くかもしれないからね」
ぽんぽん、と父に背中を軽く叩かれ、オルタンシアは頷いた。
まだまだ、ジェラールに伝え忘れたことはたくさんあるのだ。
(鼻詰まりの時は塩水で洗うといいとか、発熱にはキャベツの湿布がいいとか、ちゃんとお兄様に伝えなきゃ!)
さっそく使命感に燃えるオルタンシアを見て、父はくすりと笑みを漏らした。