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57 私のお父様

 オルタンシアとジェラールからは時間を置いて、父も屋敷へ戻ってきた。

 彼は戻って来てすぐにジェラールを執務室へ呼んでいた。

 何か大事な話があるのかもしれない。


『大丈夫か、シア?』

「……うん。ありがとうね、チロル」

『何か困ったことがあったら僕に言え! すぐにやっつけてやるからな!』


 チロルは勇ましくそう言ったが、その姿は愛らしい子猫にしか見えない。

 オルタンシアはくすりと笑って、チロルの柔らかい体を抱き上げた。


(……うん。きっと大丈夫、だよね)


 こんなに早くヴィクトルと邂逅してしまうとはオルタンシアの予想外だった。

 ……今後はなんとしても、彼と距離を取らなければ。

 ただひたすらソファに腰掛けチロルのブラッシングに興じていると、慌てた様子でパメラが駆けてくる。


「お嬢様、旦那様が執務室へお呼びです……!」

「今行くわ」


 チロルをパメラに預け、オルタンシアは立ち上がった。

 わざわざ父がオルタンシアを執務室へ呼ぶときは、たいてい大事な話があるのだ。


(今日のこと、だよね……)


 戦々恐々としながらも、オルタンシアは意を決して部屋の外へと足を踏み出した。





「いきなり呼び出して済まなかったね、オルタンシア。そこへ座りなさい」


 父はいつもと変わらず、穏やかな面持ちでオルタンシアを迎えてくれた。

 ごくりと唾を飲み、オルタンシアは執務室の少し硬めのソファへ腰を下ろした、


「……ジェラールに大まかないきさつは聞いたよ。大変だったようだね」

「…………ヴィクトル王子にお会いしたこと、黙っていてごめんなさい」


 オルタンシアが小さな声でそう謝ると、父は「気にしなくてもいい」とでもいうように鷹揚に首を横に振って見せた。


「あの時は特殊な状況だったからね。下手に広めたら不法侵入で君に咎が及びかねなかった。案外、黙っていたのは懸命な選択かもしれないな」


 父の言葉はきっとオルタンシアを慰めるための気やすめだろうが、それでもオルタンシアの心が少し軽くなったのは事実だ。


「君とジェラールがあの場を去った後、少しヴィクトル殿下と話をしたんだ。……どうやら彼は、また君に会いたがっているようだよ。年も近いので、王子の遊び相手にどうかとの話もあった」

「っ……!」


 オルタンシアは表情をひきつらせ、ぎゅっと膝に置いた手を握り締めた。

 その反応に、父はすっと目を細める。


「だが……君は、あまり彼に会いたくなさそうだね」

「…………私は公爵家に来たばかりで、王子様の遊び相手なんて務まるわけがありません。何か粗相をして、お父様やお兄様に迷惑をかけてしまうに決まってます……!」


 オルタンシアは必死にそう絞り出したが、父がどう出るかは想像がつかなかった。

 元々彼が自分の血のつながった娘かどうかも怪しいオルタンシアを迎え入れたのは、有力者に嫁がせる駒としての意味合いもあったはずだ。

 だからこそ、恐ろしい。

 ヴィクトルがオルタンシアに興味を示したのをいいことに、彼に差し出されてしまうのではないかと……。


 青白い顔で俯くオルタンシアを見て、父は小さく息を吐く。


「そうか……」


 まるで、一度目の人生で死刑宣告を受ける少し前のような気分だ。

 爪の跡がつくほど強く拳を握り締めたオルタンシアに振って来たのは……思いのほか、優しい言葉だった。


「それなら、ヴィクトル殿下にはお話ししなければいけないね。我が娘にはまだ静養が必要なので、王子の遊び相手は難しい……と」

「え……?」


 思わず顔をあげたオルタンシアに、父は優しく笑う。


「ジェラールとも話していたんだ。あと少しで、彼は学院に進学し家を空けるだろう。それと同じタイミングで、君には公爵領の方で静養してもらってはどうかとね」

「公爵領で……ですか?」

「あぁ、王都に居ても残念ながら私もなかなか家に帰れず、君に寂しい思いをさせるだろう。それよりは、自然豊かな公爵領の方が気がまぎれるのではないかと思ってね。……あそこなら、余計な誘いを受けるようなこともないだろう」


 ぽかんとしていたオルタンシアは、徐々に父の言葉の意味を理解し始めていた。

 つまりは、静養という理由を付けて物理的にヴィクトルから距離を取らせてくれるのだろう。

 オルタンシアからすれば、願ってもない状況だ。だが……父としては、それでいいのだろうか。

 彼からすれば、オルタンシアをヴィクトルに売り込む千載一遇のチャンスだというのに、やり手の彼がその機会をフイにするのが信じられなかった。


「良いのですか……?」


 おそるおそるそう問いかけると、父は目を細めて笑う。

 それは、紛れもなく誰かを慈しむ目だった。


「ジェラールの不在時に君に何かあったら、あの子がどんなふうに暴れるのか私も考えたくないからね。それに……」


 父は立ち上がり、オルタンシアの隣に腰掛けた。

 そして、優しい手つきで頭を撫でてくれる。


「私とて、愛しい娘が苦しむような姿は見たくないんだ」


 その言葉と、優しい手つきに……オルタンシアの胸は熱くなる。


「…………ありがとうございます、お父様」


 ぎゅっと父の胸に顔を埋めると、彼は優しくオルタンシアを抱きしめてくれた。


(もし、血が繋がっていなかったとしても……この人は、私の「お父様」なんだ)


 この日、オルタンシアは確かにそう感じたのだった。

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