50 心の傷を癒せるのなら
ジェラールが城に戻って来たのは、夕方になってからだった。
コンスタンが今日の出来事――オルタンシアとギャンヌ夫人の
与えられた部屋でぼんやりと外を眺めていたオルタンシアのもとへやって来たジェラールは、いつもより心なしか険しい顔をしていた。
「……パメラ、少しお兄様と二人で話したいの。人払いをお願い」
「承知いたしました、お嬢様」
パメラはちらりとオルタンシアに気づかわし気な視線を向けたが、すぐに一礼して部屋を辞した。
夕焼けが差し込む室内で、オルタンシアは義兄ジェラールに向かい合う。
先に口を開いたのは、ジェラールの方だった。
「ギャンヌ夫人がお前に無礼を働いたそうだな。主家の者への侮辱は重罪だ。すぐに処断を行う」
「……私は気にしておりませんわ。それよりお兄様」
いつもながらに涼しげな顔で、それでも憤怒を滲ませてジェラールはそう口にした。
だがオルタンシアは、ゆるりと彼の行動を制する。
「……お兄様は、よろしいのですか」
そう問いかけると、ジェラールは一瞬だけ虚を突かれたような顔をした。
「……コンスタンか」
「はい。お兄様と……それに、奥様のことを教えていただきました」
オルタンシアの表情と声色で、既にある程度事情を知っていることがわかったのだろう。
ジェラールはそっとオルタンシアに近づくと、そっと頭に手を触れた。
「……お前がそんな顔をする必要はない」
ジェラールは静かにそう口にした。
傍から見れば、ジェラールはほとんど感情を見せず、不気味に思えるのかもしれない。
それでも、オルタンシアは少しずつ彼の優しさに気づけるようになっていた。
「お兄様……少し、二人で歩きませんか?」
「なぜだ」
「私がそうしたいからです」
オルタンシアが胸を張ると、ジェラールは一瞬驚いたような表情を見せた後……静かに頷いた。
「わぁ、広ぉい!」
ジェラールに付き添われ、オルタンシアは意気揚々と夕陽の差し込む庭園へと繰り出した。
特に何か目的があったわけじゃない。
ただなんとなく、閉塞的な室内よりは大自然の中の方がいろいろと話しやすいと思ったまでだ。
ここの庭園は整然と手入れが施された王都の屋敷の庭園とは違い、自然のままの姿を色濃く残している。
オルタンシアは軽い足取りで、小川にかかった小さな木の橋を渡る。
「……そこから右手へ進むと、ヤギの放牧場がある。また明るい時に行くといい」
ぽつりとそう口にしたジェラールに、オルタンシアはにっこり笑って礼を言った。
「ありがとうございます。お兄様はお詳しいんですね」
「……俺は次期当主だからな。敷地内になにがあるのか把握しておくのは当然だ」
ジェラールは少々ばつが悪そうにそう呟いた。
(敷地内の地理について把握しておくのは当然でも、私が好きそうな場所を教えてくれたのはお兄様の厚意ですよね)
そう思うと、胸が暖かくなる。
オルタンシアはくるりと振り返って、ジェラールを見上げた。
「……お兄様は小さなころ、ここで暮らしていらっしゃったのですよね」
「あぁ、そうだ。……いい思い出は何もないがな」
自嘲するようにそう口にしたジェラールに、オルタンシアはきゅっと拳を握り締めた。
「……私はコンスタンに事情を聞いただけだし、お兄様のお母様にお会いしたことないし、口を挟む権利もないとは思うんですけど――」
オルタンシアは一歩近づき、ジェラールの手を取る。
そして、そっと握り締めた。
「……公爵夫人がお兄様を遠ざけたことに関しては、お兄様が悪いとは少しも思いません」
「自分でいうのもなんだが、俺は子どもらしくない子どもだった。母が気に病むのも無理はない」
「でもそれってただの個人差でしょう!? みんな違う人間なんだから、大げさに笑ったり泣いたりする人もいれば、あまり顔に出ない人がいてもおかしくはないじゃないですか! それだけで、不気味だとか気持ち悪いとかいうのは失礼だと思います!」
ぷんぷんと憤慨するオルタンシアを、ジェラールは珍獣を眺めるような目で見ていた。
「……そんな風に言うのはお前が初めてだ」
「えへへ、そうですか?」
「あぁ……お前は変わっている」
やはり、褒められているのか褒められていないのかはいまいちわからない。だが、それでもオルタンシアの言葉が少しでもジェラールの心の傷を癒せるのなら何よりだ。
そんな願いを込めて、オルタンシアはにっこりと笑ってみせる。
「ふふ、お兄様だって変わり者ですよ? 私たち、お揃いですね!」
そう言うと、ジェラールは微妙な顔をした。
(えっ、さすがに調子に乗りすぎた? 私とお揃いだなんてどう考えても不名誉だもんね! ど、どうしよう……)
静かに焦るオルタンシアに、ジェラールはぽつりと告げる。
「………そうだな」
ひどくわかりにくいが、それは確かに肯定の言葉だった。