5 おはようございます、お兄様
翌朝、起床したオルタンシアは緊張しつつも食堂へと足を進めた。
(なんとか、お兄様を味方につけないと……)
しかしどうすればいいのだろう。
うんうん唸りながら歩いていると、ちょうど廊下で何やら話をしていた父と義兄の姿が目に入る。
(うっ、心の準備が!)
まさかこんなに早く遭遇するとは思っていなかったので、具体的にどうするのかは全く決まっていない。
とりあえず作戦会議を……と踵を返そうとしたが、ばっちり父と目が合ってしまう。
(あぁ、お父様! そんなにいい笑顔を向けないでっ!)
見つかってしまった以上、ここから逃げ出すのも変だろう。
覚悟を決めて、オルタンシアは震える足を進めた。
(笑顔、笑顔……)
――「いい? オルタンシア。たとえどんなにムカつく奴が目の前にいても、笑顔を絶やしては駄目よ。女の笑顔は相手を油断させるトラップなんだから」
いつか母から聞いた話が頭をよぎる。
オルタンシアはぴくぴくと頬をひきつらせながらも、愛らしい笑顔を浮かべてみせた。
――「新しいお友達と出会ったら、大きな声で挨拶をしましょうね。そうすればすぐに仲良くなれるわ」
優しい笑顔の、孤児院の先生の話が頭をよぎる。
テンパっていたオルタンシアは、「とりあえず笑顔で挨拶をしなければ!」と使命感にかられ、口を開いた。
「おはようございます、お父様。おに――」
父からジェラールに視線を移した途端、オルタンシアは固まってしまう。
彼は相変わらず、見る者を凍らせるような冷たい視線でこちらを射抜いていたのだから。
(いきなり「お兄様」なんて馴れ馴れしすぎない!? 失礼だよね!? えっと、こういうときは……)
オルタンシアは今にも泣きだしたくなるのをなんとか堪え、ジェラールに向かって口を開いた。
「おはようございます、ジェラール様」
「私はちゃんと謙虚に一線を引いてますよ」アピールである。
だがその瞬間、ジェラールがかっと目を見開き、辺りにブリザードが吹き荒れた……ような幻覚に襲われた。
身も心も凍り付くような冷たい空気に、オルタンシアの笑みは一瞬で引きつってしまう。
(ひぇっ、ダメだった!? 私みたいな虫けらが声をかけること自体がおこがましかったんですか!!?)
「…………フン」
ジェラールは興味なさそうに鼻を鳴らすと、そのままくるりと背を向け、オルタンシアの前から去っていく。
彼の姿が遠ざかるにつれて、やっと体が温度を取り戻していくような気がした。
(よかった、生きてる……じゃなくて! 全然よくない!!)
……どう考えても、好感度はプラマイ0かむしろマイナスに傾いている。
この状態からジェラールを味方につけるヴィジョンがまったく思い浮かばず、オルタンシアは途方に暮れてしまった。
「おはよう、オルタンシア。昨日はよく眠れたか?」
爽やかに声を掛けてきた父に小さく頷くと、彼は少し困ったように笑った。
「ジェラールのことなら気にしないでくれ。気難しい年頃で……けっして君のことを嫌っているわけじゃないんだ」
父はそうフォローしてくれたが、オルタンシアの心はずっしりと重かった。
(いやいや、あの眼差しはどう考えても私のことミジンコ以下だと思ってますよね? 頑張って姿を見せないのが一番好感度減らないような気がしてきた……)
しかしそれだと一度目の人生の二の舞だ。
とぼとぼと歩きながら、オルタンシアは小さくため息をつく。
(私はお父様の愛人の子(仮)で、実際はお父様の血を引いているかどうかも定かじゃない。お兄様からすれば、突然やって来た孤児院育ちの娘を家族……というよりも、公爵家の一員だなんて受け入れられるはずがないよね)
むしろ積極的に挨拶してしまったことで、「なんて馴れ馴れしくて図々しい女だ……!」と好感度ダダ下がりになってしまったかもしれない。
(はぁ、こんな調子で大丈夫かな、私……)
どんよりした気分のまま、オルタンシアは父に促されるようにして食堂に足を踏み入れた。