48 そんなことって、ある?
「ふぁ~、本当に広いのね」
翌日、オルタンシアは家令のコンスタンに屋敷の案内を受けていた。
王都の屋敷に初めて足を踏み入れた日も、まるでお城のようだと驚いたものだ。
だが、この領主館はその比じゃない。
それこそ巨大な城だ。今だって一人置いていかれれば、オルタンシアは間違いなく迷子になる自信がある。
「有事の際は領民の避難場所にもなりますからね。広すぎるとその分維持に人手がかかりますが、その分雇用を生み出していると考えることもできます」
「なるほど……」
壮年の家令――コンスタンは、オルタンシアにもわかるように優しく説明を加えてくれた。
うんうんと頷きながら、オルタンシアは伝えられた情報を頭に叩き込んでいく。
「そういえばお兄様は?」
「午前中は現在の領地の状況についてのご報告を受け、午後からは視察に出かけると伺っております」
「わっ、またお仕事してる! お兄様をリフレッシュさせるようにお父様に頼まれてるのに!」
「ほほほ、では明日からはお嬢様が若様を連れ出してくださいませ。お嬢様のお言葉なら若様も聞かざるを得ないでしょう」
「えへへ、そうかな?」
そんなことを話しているうちに、オルタンシアたちは新たな区画へ足を踏み入れていた。
敷かれている絨毯、廊下に飾られた美術品や調度品……どれをとっても、品よく統一された一級品だということが見て取れる。
今までの場所とは明らかに違う。誰か高貴な者の居住区画であることは明らかだった。
「ねぇコンスタン、この辺りは……」
誰のお部屋なの……と、問いかけようとした時だった。
「何をしているのです!」
甲高い声が鼓膜を揺らし、オルタンシアは思わずびくりと身を竦ませてしまった。
「ここは奥様のお部屋に近い場所ですよ!? 勝手に立ち入るとは何事ですか!」
見れば、身なりの良い夫人が目を吊り上げてこちらへ向かってくるところだった。
彼女の鋭い視線は、まっすぐにオルタンシアを睨みつけている。
彼女の視線からオルタンシアを庇うように、コンスタンがすっと前に立つ。
「ギャンヌ夫人、オルタンシアお嬢様は公爵閣下のお嬢様……正式な公爵家の一員となられたのです。この城館の中でお嬢様の立ち入ってはいけない場所などありません」
「なんですって……!? まさか、その子どもに奥様のお部屋を明け渡せなんて言うんじゃないでしょうね!?」
「そうではありません。お嬢様にはこの城館のどこに何があるのか知る権利があるというだけです」
「奥様をないがしろにして生まれた娘に、そんな権利などあるはずがないわ!」
ギャンヌ夫人と呼ばれた女性は、ますます語気を荒げていく。
対するコンスタンは、落ち着いた姿勢を崩さないが……どことなく、怒気のようなオーラが感じられた。
それが恐ろしくて、オルタンシアは慌ててコンスタンの服の裾を引く。
「い、いいのよコンスタン。他の場所を案内してもらえるかしら……」
「ですが、お嬢様……」
「本当にいいの! だから、お願い……」
必死に頼むオルタンシアに、コンスタンは優しい目に戻ると、すっと頷いた。
「……承知いたしました、お嬢様。では別の場所に向かいましょう」
コンスタンが聞き入れてくれたことで、オルタンシアはほっと息をつく。
そのままギャンヌ夫人に背を向け立ち去ろうとしたが、彼女は嘲るように笑った。
「さすが。母親に似て媚びいる技術は一人前のようね。……あの不気味な子どもにもそうやって取り入ったのかしら?」
(え…………?)
オルタンシアにはわけがわからなかったが、コンスタンはその言葉に足を止め、再び夫人の方へ振り返った。
「……言葉が過ぎます、ギャンヌ夫人。これ以上の若様やお嬢様への侮辱は見過ごせません、きっちりと、公爵閣下にご報告いたします」
「ふん、勝手にすればいいわ! 浮気性の夫に人形みたいで不気味な息子に、挙句の果てには娼婦の娘まで現れるなんて! 振り回された奥様が本当にお可哀そうで――」
そこでパメラがそっと耳を塞いだので、オルタンシアはそれ以上ギャンヌ夫人の罵詈雑言を耳にせずに済んだ。
だが、今聞いたばかりの言葉がぐるぐると頭の中を渦巻いて、心臓が早鐘を打っている。
(不気味な息子って……まさか、お兄様のこと……?)
オルタンシア自身について口汚く罵られるのならよくわかる。一度目の人生でも、何度も同じようなことを聞いた。
だが、ジェラールのことについて誰かがこんな風に罵っているのは初めて聞いた。
それも、公爵夫人――ジェラールの母親に、近しかった人間が。
(まさか……)
オルタンシアの頭の中で、嫌な仮説が出来上がっていく。
――「俺といても、お前が楽しめるとは思えない」
ジェラールがぽつりと零した言葉が蘇る。
おかしいとは思ったのだ。オルタンシアから見て、ジェラールはその程度の些細な悪口を気にするような人間ではない。
気にするのだとすれば、例えば……その言葉を口にした人物が、ジェラールに大きな影響を及ぼすような人間だったのかもしれない。
――「人形みたいで不気味な息子」
もしやその言葉は、公爵夫人が息子であるジェラールに向けていた言葉ではなかったのだろうか?
(そんなことって、ある……?)
ジェラールのガラス玉のように澄んだ瞳が蘇る。
もしかしたら、彼は……その瞳の奥に、たくさんの悲しみを飲み込んできたのかもしれない。
そう考え、オルタンシアは胸を痛めるのだった。