47 何もないのが一番です
「ふふふ~ん、お魚とかいるのかな?」
無事に小舟に乗船したオルタンシアは、きょろきょろと周囲を見回した。
そんなオルタンシアの隣には、いつもと変わらず表情の読めないジェラールが座っている。
ちらりと彼の様子を確認し、そこまで機嫌が悪くなさそうなのを確認すると、オルタンシアはほっと安堵の息を吐いた。
(はぁ、第一関門突破ってところかな?)
この街では、乗合馬車のようにこの小舟が人々の移動手段の一つとなっている。
オルタンシアのわがままで終点まで乗せてもらえることになったので、少なくともしばらくの間はジェラールが仕事人間に戻ることはないだろう。
「あっ、パメラだ! おーい!!」
ちょうど進行方向の橋の上から、チロルを抱っこしたパメラがぶんぶんと手を振っているのが見える。
チロルは水の上を進む舟に乗るのを怖がっていたので、パメラに預けたのだ。
一生懸命手を振り返すオルタンシアを、奇妙な生き物を見るような目で眺めながら、ジェラールはぽつりと呟いた。
「……あのメイドと一緒に乗らなくてよかったのか?」
「えっ、どうしてですか?」
「こういうことに関しては、俺よりも適任だろう」
「うーん……でも、私はお兄様と乗りたかったんです」
「なぜだ」
「えっ?」
いつになく深く追及され、オルタンシアは少し驚いてしまった。
「俺といても、お前が楽しめるとは思えない」
ジェラールが至極真面目にそんなことを言い出したので、オルタンシアは今度こそ驚きのあまり舟から落ちるところだった。
(えっ、お兄様でもそんなこと気にするんだ……)
もしかしたら、誰かにそんなことを言われたことがあるのだろうか。
(一体誰に……? お兄様にそんなことを言えるような勇者なんて、この世に存在するのかな……)
考えてみたが、やはり思いつきそうにはなかった。
だが、彼が心配するほどオルタンシアはつまらない思いをしているわけではなかった。
それだけは、伝えておかなければ。
ジェラールは表情に乏しく、何を考えているのかわかりにくいが……そんな彼の些細な変化から感情を読み取ろうとするのが、最近のオルタンシアの密かなマイブームだった。
常人に比べると遥かに難易度が高いが、ジェラールの微かな表情の変化、声色、動作などをよく観察すれば……少しずつ、彼が何を考えているのかわかることも増えている。
(まぁ、分からない時の方が圧倒的に多いんだけどね……)
それでも、オルタンシアは笑顔で告げた。
「楽しいですよ。お兄様と一緒で」
「…………そうか」
その平坦な声からは、ジェラールの感情を推し量ることはできなかった。
だがその後、ぽつぽつと通りがかる街の要所について説明してくれたことを考えると……彼も彼なりに、オルタンシアのことを楽しませようとしてくれたのかもしれない。
◇◇◇
滞在初日の夜、オルタンシアは割り当てられた部屋でのんびりと過ごしていた。
ジェラールが釘を刺してくれたおかげか、思ったよりもずっと居心地よくすごすことができている。
だがごく一部の者から、まるで肌を刺すような厳しい視線を向けられることもあった。
「どうも奥様にお仕えしていた方の一部が今でも屋敷に残っているようで、お嬢様のことを良く思っていないようですね」
「やっぱりそうか……」
さっそくここの使用人と打ち解けたらしきパメラがもたらした情報に、オルタンシアは小さくため息をついた。
今は亡き公爵夫人に仕えていた者たちが、公爵の温情で今も屋敷に残っており、屋敷の女主人のように振舞っていたのだという。
だがオルタンシアが現れたことで彼らの立場は危うくなってしまった。
ジェラールが口にしたように、現在オルタンシアが公爵家の女性の中では一番序列が高い。
亡き公爵夫人に仕えていた上品な女性たちからすれば、妾腹の卑しい娘が我が物顔で屋敷を練り歩くなど、それはそれは虫唾が走るのだろう。
「はぁ、何もなければいいんだけど……」
「大丈夫ですよ、お嬢様。私がお嬢様をお守りいたします!」
「ありがとう、パメラ。でもできればトラブルは避けてね……」
オルタンシアとしては、別に彼らを追い出したり屋敷の女主人の座にとって代わりたいわけでもない。
ただただ、何のトラブルも起こらないことを願うだけだ。
だが、そんなオルタンシアの願いはいともたやすく砕かれてしまうのである。