41 お兄様の悪夢
一方オルタンシアと別れたジェラールは、いつものように表情を動かさず廊下を闊歩していた。
だがその胸の内では、少なからず動揺していたのである。
まさか、オルタンシアに不調を悟られるとは思わなかった。
ジェラールはあからさまに体調不良を表に出すことはない。事実、使用人や外部の人間はジェラールの不調を気取ることはなかった。
だが、あの危なっかしい小さな義妹だけが、彼の変化に気が付いたのだ。
――「……問題ない。急な雑務が入り、少し寝不足なだけだ」
あの言葉は、半分嘘で半分事実だ。
ジェラールはきっちり自分のスケジュールを調整している。急な雑務が入ったとしても、睡眠時間を脅かすほど余裕がないわけがない。
だが……寝不足だということだけは、嘘偽りのない事実だった。
何度も繰り返し、同じ夢を見る。
悪夢だといってもいいだろう。
――「――――さま! ――――さい!! ――です! ――――など――――おりません!!」
夢の中では、いつも一人の女性がこちらに向かって助けを求めている。
――「お……――さま! ――ください!! ――です! 私は――など――はおりません!!」
ジェラールはいつも、彼女を救わなければという思いに駆られる。
だがそんな体は動かず、夢の中のジェラールはジェラールの意志とは正反対の行動を取ってしまう。
……助けを求める女性を、非常に突き放すのだ。
――「お……お兄さま! 助けてください!! 冤罪です! 私は暗殺など企んではおりません!!」
髪を振り乱して、目にいっぱいの涙をためて、彼女は必死にこちらに手を伸ばす。
その手を取ってやれたら、もう大丈夫だと抱きしめてやれたらどれだけよかっただろう。
だが、悪夢はどこまでも悪夢だった。
――「黙れ、公爵家の恥さらしめ。……俺は一度たりとも、お前を妹などと思ったことはない」
その言葉と共に、彼女の――オルタンシアの表情は絶望に歪む。
そのまま彼女は断頭台へと連れていかれ、儚い命を散らすのだ。
そんな光景を、もう何度もジェラールは目にしている。
ジェラールの知る姿よりも幾分か成長しているようだが、間違いない。
あれはジェラールの義妹、オルタンシアに他ならなかった。
何度やめろと叫ぼうとしても、彼女を助けようとしても、オルタンシアは断頭台の露と消えてしまう。
最近では夢を見るのが嫌で睡眠を削っていたのだが……オルタンシアに悟られてしまった以上、やめた方がいいだろう。
――「お兄様、無理だけはなさらないでくださいね。私、もっとたくましくなってお兄様をお支えしますから! 私にできることがあったら何でも言ってください!」
つい先ほど会ったばかりの、小さな義妹の姿が蘇る。
大丈夫、ジェラールにとっての現実はこちらだ。
何度悪夢を見ようとも、しょせん夢は夢。
現実に侵食することなどできはしない。
「おや、ジェラール様。どうなさいました?」
立ち止まったジェラールに気づいたのか、駆け寄り声をかけてきたのは、最近公爵家で働くようになった若き従僕――リュシオンだった。
この男はジェラールの目から見てもすこぶる優秀なのだが……どうにも得体のしれない部分があるように感じられることがある。
弱みを悟られないように、ジェラールは再び歩き出した。
「なんでもない、行くぞ」
「承知いたしました」
大げさに礼をして見せたリュシオンを従え、ジェラールはオルタンシアとは反対方向に足を進め始めたのだった。