40 お兄様はお疲れのようです
ヴィリテ公爵家の屋敷にやって来たチロルは、毎日好奇心旺盛にあちこちを探検している。
彼の幼い性格からしてホームシックになるのでは……とオルタンシアは心配していたが、今のところその兆候はないようだ。
屋敷の人間にも、オルタンシアがアニマルセラピーを始めたと思われているようで、「ちょっと変わった模様の猫ちゃん」として可愛がられていた。
ちょこちょこと愛らしく走り回るチロルが傍にいると、オルタンシアも癒され、嫌な記憶を遠ざけることができた。
屋敷の外――社交界に戻ることは恐ろしくてできないが、以前にも増して精力的に、屋敷内で様々なことを学んでいた。
(今度はうまく立ち回れるようにいろんなことを知っておきたいし、また誰かが誘拐しに来てもふっとばしてやるんだから!)
冤罪で投獄され、処刑台へと送られた。
なすすべもなく誘拐され、ただ殺されるのを待つことしかできなかった。
……もう二度と、あんな思いはしたくない。
オルタンシアや、オルタンシアの大切な者たちを守りたい。
そんな一心で、オルタンシアは今日も自己研鑽に励むのだった。
(えっと、次は音楽のレッスンだよね……)
あまり器用ではないオルタンシアの苦手分野ではあるが、だからこそ気が抜けない。
頭の中でイメージトレーニングをしながら廊下を歩いていると、オルタンシアはふと前方からやってくる人物に気が付いた。
「あれ、お兄様?」
やって来るのは、オルタンシアの義兄ジェラールだった。
だが、今日の彼は普段と違って……なんとなく覇気がない、気がする。
心配になり、オルタンシアはジェラールに声をかけた。
「ごきげんよう、お兄様。……お兄様、少し顔色が優れないようですが――」
足を止めてこちらに視線をやったジェラールは、普段と変わらないように見えるが……よく見ると顔色が悪い。
どこか超人的なオーラを纏うジェラールだが、彼だって人間なのだ。体調を崩してもおかしくはない。
義兄の不調におろおろするオルタンシアに、ジェラールは小さくため息をついた。
「……問題ない。急な雑務が入り、少し寝不足なだけだ」
「そんな……大丈夫ですか?」
「あぁ、既に済んだことだ。お前が気にすることはない」
ジェラールはそう言ったが、オルタンシアは気になって仕方がなかった。
(お兄様、本当にそれだけ……? 何か、抱えてたりするのかな……)
彼は国内でも有数の公爵家の嫡男なのだ。それこそ、オルタンシアが想像もつかないような重い責務を背負っているはずだ。
(私がもっと成長すれば、お兄様の重荷を一緒に背負ってあげることができるかな……)
一度目の人生では叶わなかった。だが今度こそは、彼の役に立つことができるかもしれない。
「お兄様、無理だけはなさらないでくださいね。私、もっとたくましくなってお兄様をお支えしますから! 私にできることがあったら何でも言ってください!」
背伸びしてそう宣言するオルタンシアに、ジェラールは驚いたように目を見開いた後……表情を隠すように俯いた。
(えっ、怒った? 私みたいなちんちくりんが生意気だったかな……!?)
オルタンシアは焦ったが、取り繕おうと口を開く前に、ジェラールの手が伸びてきてわしゃわしゃと頭を撫でられる。
「あぁ……期待している」
それだけ言うと、ジェラールは静かにオルタンシアの横を通り過ぎている。
だがオルタンシアは、胸がいっぱいでしばらく頭を撫でられたままの姿勢から動くことができなかった。
(お兄様が、私に期待してるって……!)
――「黙れ、公爵家の恥さらしめ。……俺は一度たりとも、お前を妹などと思ったことはない」
かつて投げかけられた、身も心も凍らせるような冷たい言葉が蘇る。
だが、そんな呪いのような言葉を思い出しても……以前のように身がすくんだり、絶望に苛まれることはなかった。
それ以上に、暖かな感情が胸の内を満たしている。
(お兄様……私、もっともっと頑張ります)
そのまま幸せな余韻に浸っていたオルタンシアだったが……不意に不思議そうなチロルに声をかけられてはっと我に返る。
『シア、なにニヤニヤしながら突っ立ってるんだ?』
「えっ、これはその……って大変! レッスンの時間が!!」
うっかり時間を失念していたオルタンシアは、淑女らしからぬ全力ダッシュで廊下を駆け抜けるのだった。