38 ただいま、お兄様
「お、お兄様……」
(まさかここ、お兄様の私室ですか!?)
なんと声をかけていいのかわからず、オルタンシアは固まってしまう。
精霊チロルを連れて帰って来たことを報告するべきか、部屋の中に入ってしまったことを弁解するべきか。
考えがまとまらず、「えっと、あの……」と繰り返しているうちに、ぬっとジェラールの腕がこちらへ伸びてくる。
勝手に部屋に入ったことを怒られるかと、オルタンシアはぎゅっと目を瞑ったが――。
「え……?」
ジェラールは何も言わず、強くオルタンシアを抱きしめたのだ。
「……よく、帰ってきた」
感情を押し殺したような声で、ジェラールはそう囁く。
たったそれだけで……彼が本当にオルタンシアの帰還を喜んでくれているのがわかった。
じわりと目の奥が熱くなり、オルタンシアは万感の思いを込めて口を開いた。
「ただいま、お兄様」
数秒の間、ジェラールは何も言わずにオルタンシアを抱きしめていた。
オルタンシアも心地よい気分で目を閉じ、彼に体を預けていたが……不意に腕の中のチロルが我慢できないとでもいうようにもぞもぞと動き出す。
『いい加減に苦しいんだぞ!』
「わわっ、ごめんね!」
慌ててチロルを救出すると、ジェラールは珍しく驚いたように目を丸くして、まじまじとチロルを見つめていた。
「……変わった猫だな」
『おいっ、僕は猫じゃないぞ!』
フシャーッとジェラールを威嚇するチロルを、オルタンシアは慌てて宥めた。
「そ、そうだよね! チロルは立派なユキヒョウの精霊だもんね……! お兄様、この子はチロルと言って、私についてきてくれることになった精霊なんです」
「……そうか。なんにせよ、お前が戻って来たことを父上に報告する必要があるだろう」
「はいっ!」
立ち上がり父の元へ向かうジェラールの後ろを、オルタンシアはカルガモの雛のように追いかけた。
彼がオルタンシアの帰りを喜んでくれた。それは、オルタンシアにとっては何よりも嬉しいことだったのだ。
◇◇◇
オルタンシアが精霊界に向かってから再び公爵邸に戻って来るまで、体感的には半日ほどだった。
だが驚くことに、実際には一週間が経過していたのだという。
「よく戻って来てくれたね、オルタンシア。その精霊は…………なかなか可愛いじゃないか。しっかり世話をするんだよ」
父はオルタンシアの帰りを喜び、オルタンシアの腕に抱かれたチロルを見ると少しだけ困ったように笑った。
(確かに、強くなりたいって精霊界に向かったけど……どうみてもチロルは強そうには見えないもんね……)
父に顎の下をくすぐられ、ゴロゴロと気持ちよさそうに鳴くチロルに、オルタンシアは苦笑した。
それでも、オルタンシアは満足していた。既にチロルは、オルタンシアにとってはなくてはならない小さな友人となっていたのだ。
「さぁ、今日はオルタンシアの帰りを盛大に祝おうじゃないか!」
そんな父の号令に、控えていた使用人たちが一斉に動き出した。
ヴェリテ公爵邸での食事はいつも豪勢だが、オルタンシアの帰還祝いと称された今宵の晩餐は……いつも以上に手が込んでいた。
次から次へと運ばれてくる皿に目を回していると、足元にいたチロルがちょんちょんとオルタンシアの足先を突っつく。
『シア、僕も食べたいんだぞ!』
「あっ、ごめんね! えっと……この子の分も用意してもらえますか?」
控えていた使用人にそう頼むと、すぐにチロル用の皿が運ばれてくる。
がつがつと食らいつくチロルを微笑ましい気分で眺めていると、オルタンシアはふと違和感を覚えた。
(あれ、あの人……)
オルタンシアの向かい側のジェラールの背後に……見慣れない者が一人。
理知的な雰囲気の、若い男性だった。
この場にいるということは、新しい使用人なのだろうか。
ちらちらとそちらに視線をやっていると、その動きに気づいたのか父が教えてくれた。