37 扉の向こうには
……いったいどのくらいの時間が過ぎたのだろう。
この空間に昼夜の概念はないようで、頭上の天蓋はここに来た時と同じく宵闇色のままだ。
「……チロル、ちょっと休憩しよっか」
『そうだな!』
不安を表に出さないようにわざと明るい声を出し、アーシャはチロルを抱いてその場に腰を下ろした。
(……体感的には数時間たったと思うんだけど……駄目だ、わかんない)
どれだけ歩いても不思議と疲れることがないのだが、それが逆に時間の感覚を曖昧にさせる。
数時間たったのか、それとも数分もたっていないのか。
もしかしたら同じところをぐるぐると回っているだけではないのか。
そんな疑心暗鬼に駆られ、オルタンシアはチロルを仰向けにしてお腹に顔を埋めた。
そのまますーはーと息を吸うと気力が戻ってくる。
(きっと大丈夫。絶対に出口は見つかるはず……!)
チロルが一緒で良かった。オルタンシア一人だったら、絶望して一歩も前に進めなかったかもしれない。
「……ヴェリテ家のお屋敷に着いたら、みんなにチロルを紹介するね。美味しいものも食べれるよ」
少しでも楽しいことを考えようと、オルタンシアはチロルの肉球をふにふにしながらそう語りかけた。
『みんな? みんなって誰だ? シアの群れの奴か?』
ちょこんと首をかしげるチロルに、オルタンシアは思わず笑ってしまった。
「群れって言うか……家族? あとは使用人――お屋敷で働いてくれている人たちかな」
公爵邸の者たちの顔が頭をよぎる。特に強く思い出したのは……義兄ジェラールのことだ。
あの凍り付くような視線すら、今は懐かしく思える。
「お兄様に、会いたいな……」
そう口に出した途端、彼方からすっと光の筋が現れた。
「えっ!?」
青く輝く光の筋は、一直線にオルタンシアの足元まで伸びてくる。
ゴロゴロと喉を鳴らしていたチロルも、慌てたように飛び上がった。
『なんだこれ!』
「わからないけど……もしかしたら、どこかへ繋がってるのかな?」
その光の筋は、オルタンシアには救いの糸のように感じられた。
「チロル、行こう!」
『おう!』
オルタンシアとチロルは、青い光の筋を辿るように走り出した。
不思議なことに、息は切れず足も疲れずどこまででも走ることができる。
後ろを振り返ることもせず、オルタンシアとチロルはひたすらに走る続けた。
やがて、暗闇の中にぽつんと一枚、大きな扉が立っているのが視界に入ってくる。
その光景を目にして、オルタンシアはひゅっと息を飲んだ。
「そんな、まさか……」
暗闇にぼぅっと浮かび上がるように鎮座しているのは、公爵邸の玄関の大扉だったのだ。
『でっかい扉だな~』
「うん、本当に大きすぎるよね」
いつもは使用人に開けてもらうため、滅多に触れたことのないその扉にオルタンシアは手を伸ばした。
(大丈夫、この先はきっと……!)
温かい場所に、繋がっているはずだから。
そう信じ、背伸びしたオルタンシアは全身の力を籠め、扉の取っ手を押した。
ゆっくりと扉が開き、扉の中から眩いほどの光が溢れ出している。
目がくらみ、とっさにオルタンシアは目を瞑って――。
「あれ?」
次に目を開けたとき、オルタンシアは素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ここ……公爵邸だよね!?」
オルタンシアの目に映るのは、見慣れない部屋だった。
だが建物の造りや空気感は、オルタンシアのよく知る公爵邸そのものだ。
(考えてみれば、まだまだ私の知らない部屋もたくさんあるんだよね……)
きょろきょろと辺りを見回し……オルタンシアは嫌な予感を覚えた。
(もしかしなくてもここ……誰かの私室!?)
この空間は、以前目にしたパメラの部屋とは比べ物にならないほど広く調度品も豪奢だ。
全体的にシックで落ち着いた雰囲気。おそらくはそれなりに地位のある男性の部屋だろう。
(えっ、誰だろう。とにかく見つかったら気まずいしここから出ないと……)
不可抗力とはいえ、他人の私室に侵入していると知られるのは避けたい。
物珍しそうにあちこちを嗅ぎまわるチロルを抱え、オルタンシアは静かに部屋を出ようとした。
だがその時、今まさにオルタンシアが触れようとしたドアノブがひとりでに回ったのだ。
「え」
身構える暇もなく、静かに扉が開く。
果たしてその向こうにいたのは、オルタンシアの記憶通りの姿をしたジェラールだった。