36 早くおうちに帰りたい
「前に読んだ本に載ってたの。すごく強い精霊なんだって」
「うわぁ……シアは物知りなんだね!」
(そりゃあ……読書と刺繍くらいしかすることのない引きこもりでしたからね!)
地味すぎる前世の生活を思い出し、オルタンシアは生暖かい気分になった。
だがそれとは対照的に、ヴィクトルは嬉しそうに顔を輝かせている。
「もっといろいろ教えてよ! こっちのは?」
「えっと……」
しどろもどろになりつつも、オルタンシアはヴィクトルの疑問に答えていく。
どうやらこの装飾写本は、希少な精霊などについて解説しているようだった。
そうこうしているうちに、やがて遠くから何人か大人の声が聞こえてくる。
「――、いらっしゃいますか?」
「帝王学の教本が置いてある。この辺りにいらっしゃるのだろう」
「早く出てきてくださーい」
その声を聞いた途端、ヴィクトルは「うげっ」と嫌そうな顔をした。
「もう見つかったか……」
おそらくは、彼の家の者が探しに来たのだろう。
オルタンシアも焦って、きょろきょろと周囲を見回す。
(ここで見つかったら絶対不審者だよね……!)
子どもだからと言って見逃してもらえるとは思えない。
ヴィクトルの家の者に捕まり、素性が知られれば……それこそ大問題だ。
「どうしよう……」
焦りに焦って、ぎゅっと腕の中のチロルを抱きしめた時だった。
『シア! この奥に時空の裂け目ができてる!』
手足をばたばたさせながら、チロルがそう叫んだのだ。
「えっ!?」
『どこに繋がってるかはわからないけど、別の場所に行けそうだぞ!』
「それ本当!?」
また変なところに繋がってしまうかもしれない。
だが、ここで捕まるよりはましだろう。
「ごめんヴィクトル。私行かなくちゃ」
「え、シア!?」
「遊んでくれてありがとう。楽しかったよ!」
それだけ言うと、オルタンシアは四つん這いになってうろの奥へと這っていく。
「シア、待って!」
ヴィクトルが慌ててオルタンシアを引き止めようとした途端、入り口の方から別の声が聞こえた。
「見つけましたよ、王子」
(え、王子!?)
そんな馬鹿な……と、オルタンシアが驚いたその時だった。
奥へ奥へと伸ばした手が空を掻いたかと思うと、オルタンシアの体は頭から中空に投げ出されていたのだ。
(ひゃああぁぁぁ!?)
チロルを抱っこしたまま、オルタンシアは真っ暗な空間をゆっくりと下へ下へと落ちていく。
やがて、真っ暗な中にちかちかと様々の色の星のような点滅が見えた。
「きれい……」
そうこうしているうちに……ふわりと風に支えられるように、オルタンシアは足の先から地面に降り立つことが出来た。
「はぁ、よかった……でも、ここはどこなの……?」
オルタンシアが降り立ったのは、薄暗い花畑のような場所だった。
周囲は真夜中のように暗く、わずかな星明りと足元で咲く見たことのない花だけがぼんやりと光を放っている。
頭上を見上げたが、もうヴィクトルの秘密の隠れ家は見えず彼の声も聞こえなかった。
「チロル、どっちに行けばいいかわかる?」
『う~ん……わかんないぞ』
地面に降り立ったチロルはあちこちをうろうろとしていたが、やがて困った顔をしながらオルタンシアの元へと戻ってきた。
不安を押し殺すようにチロルを撫でながら、オルタンシアは嘆息した。
「……とりあえず、歩いてみよっか」
ずっとここにいても、状況が好転することはなさそうだ。
歩き続ければ、またどこかへ繋がる扉が見つかるかもしれない。
そう信じ、オルタンシアは歩き出した。