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35 どこかで聞いた名前

「ここにいるとね、気分が落ち着くんだ。聞こえてくるのは森の音だけで、誰も僕を怒ったり急かしたりしないから」

「ヴィクトル……」


 子どもらしからぬ愁いを帯びた表情でそう口にするヴィクトルに、オルタンシアはなんて声をかければいいのかわからなくなってしまった。


(ヴィクトルも大変なのね。やっぱりけっこうな名のある貴族の子どもなのかな。あれ、そういえばヴィクトルって名前、前にどこかで聞いたような……)


 さして珍しい名前でもないし、きっと別人のことだろう。そう自分を納得させたオルタンシアは、そっと息を吐いた。


(私も昔は、アナベルの叱責が嫌で嫌で仕方なかったっけ。ヴィクトルみたいに秘密基地は持ってなかったから、普通に自室で落ち込んでたけど……)


 だが、アナベルがオルタンシアに厳しく接するのは、自らに課せられた責務と、オルタンシアへの期待ゆえの行動だったのだ。

 きっとヴィクトルの周りに居る者たちも、彼に期待をかけているからそうするのだろう。


「あのね……ヴィクトル。ヴィクトルに厳しくする人たちはいるだろうけど、きっとその人たちも、ヴィクトルのことが大好きだからそうするんだと思う」


 そう口にすると、ヴィクトルは納得できないとでもいうように頬を膨らませた。


「そんなのおかしいじゃないか! 僕のことが好きなら、もっと優しくしてくれてもいいのに……」

「きっとヴィクトルが大事な時に恥をかかないように、わざと厳しくしているんだよ。それは、本当にヴィクトルのことが好きだからそうしているんだと思う」


 口に出してしまってから、オルタンシアは少し後悔した。


(いや、七歳の子にこんなこと言ってもわかんないよね! はぁ、失敗した……)


 だがしかし、ヴィクトルはオルタンシアの言葉を聞いた途端、きょとんと目を丸くしたのだ。


「そうか……そういう考え方もあるんだ……。シアは頭がいいんだね」

「そ、そんなことないよ……! 私も、同じような経験があるだけ。すっごく厳しいと思ってた人が、本当は優しい人だってわかったりね」

「ふぅん……僕と、同じだね」


 そう言うと、ヴィクトルは嬉しそうに笑った。

 つられるようにして、オルタンシアも微笑む。

 ヴィクトルはごそごそと木のうろの奥の方を探っていたかと思うと、きらきらと輝かせて一冊の本を掲げた。


「見て、僕の秘密の宝物! 特別にシアにだけ見せてあげる!」


 彼が見せてくれたのは、異国の物と思わしき言語で書かれた絵物語だった。


(装丁に金箔が使われてる……ものすごい価値のある本じゃない!?)


 たかが本一冊と言えども、庶民の給料何か月分の値が付くことか……。

 果たして目の前の少年はこの本の価値を理解しているのだろうか。


(ここに隠してあるのを見ると、気にしてないんだろうな……)


 だがそんなところが微笑ましくもある。

 ヴィクトルが本を開いて見せてくれたので、オルタンシアも視線を走らせた。

 色鮮やかな挿絵が描かれ、文字にも緻密で美しい装飾が施されている。


(装飾写本かぁ。貴族の家なら珍しくもないけど……まさかこんな遊び道具みたいになってるのは初めて見た!)


 ほっこりした気分で見守るオルタンシアに、ヴィクトルは一つ一つの絵を指して解説してくれる。


「何が書いてあるのかはわからないけど……この動物とかすっごく強そうで好きなんだ!」

「これは……コカトリスかな?」

「シア、知ってるの!?」


 ヴィクトルが勢いよく食いついてきたので、オルタンシアは少し驚きながらも頷いた。



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