32 ちっちゃな精霊さん
「…………いや、まさか――」
『ちょっと! 聞こえてるんでしょ! 無視なんていい度胸じゃない!』
「はひっ!」
にわかには信じがたいが、どうやらこの声の主は目の前の小鳥であるらしい。
オルタンシアは慌ててよく小鳥の話を聞こうとしゃがみ込んだ。
その態度に満足したのか、小鳥はオルタンシアに近寄ってくる。
『人間が来るなんていつぶりかしら。あなた、どこから来たの?』
「えっと……ヴェリテ公爵家の地下室からです」
『ヴェリテ家! 懐かしい名前だわ……』
小鳥はぱたぱたと翼をはためかせ飛翔すると、ちょこんとオルタンシアの肩に収まった。
『私もずっと昔に、ヴェリテ家の子と共に過ごしたことがあるわ』
「えっ、本当ですか!?」
『えぇ、本当よ。彼女が息を引き取るその日まで、あの子を守り尽くしたの……』
小鳥は多くを語らなかった。
だがその昔を懐かしむような優しい目からは、かつてのヴェリテ家の人間への深い愛情が伝わってくるようだった。
『ヴェリテ家の子どもがここに来るってことは……わかったわ。契約する精霊を探してるんでしょ』
「はっ、はい!」
『ふぅん、そういうことねぇ……』
小鳥は品定めでもするかのようにぱたぱたとオルタンシアの周りを飛び回った。
かと思うと、再びオルタンシアの肩に着地しある方向を翼で指し示す。
『ちょうど活きのいい子がいるのよ。あの子もずっとここにいても退屈でしょうし、紹介してあげるわ』
「ありがとうございます……!」
うまい具合に話が進んで、オルタンシアはほっとした。
このままうまくその精霊と契約できればいいのだが……そう考えた時、すっと背筋に冷たいものが走った。
(でも、私はヴェリテ公爵家の血を引いていないのかもしれない)
この鳥がここまで親切にしてくれるのは、オルタンシアを「ヴェリテ公爵家の人間」だと思っているからだ。
だが実際のオルタンシアは、父と血が繋がっているかどうかは定かではない。
公的な手続き上は「公爵令嬢」として扱われているが、精霊たちにとって重要なのはそこではないだろう。
(私がヴェリテ公爵家の人間じゃないってばれたら、失望されるかもしれない……)
だったら、今ここで素性を明かしておくべきだ。
だが嬉しそうにさえずる小鳥を見ていると、とてもそんなことは言えなくなってしまった。
(はぁ、私のいくじなし……)
自分の不甲斐なさに呆れながらも、オルタンシアはゆっくりと足を進めた。
やがてたどり着いたのは、まるで遺跡のように石柱の連なる場所だった。
その中央には、息をのむほど美しい白い豹が静かに身を横たえていた。
(図鑑で見たユキヒョウみたい……)
オルタンシアはこの場の状況も忘れ、美しいユキヒョウに目を奪われてしまう。
オルタンシアの足音に気が付いたのか、ユキヒョウは静かに頭をもたげた。
『おや、これはこれは……珍しいお客様ですね』
のそりと起き上がったユキヒョウが、ゆっくりオルタンシアの方へと近づいてくる。
その美しさと威圧感に圧され、オルタンシアは慌ててその場で礼をした。
「初めまして! オルタンシアと申します……!」
頭を下げるオルタンシアに呼応するように、小鳥がオルタンシアの肩から飛び出しユキヒョウの前へと舞い降りる。
『この子ヴェリテ公爵家の子なの。契約する精霊を探してるって話だし、あのやんちゃな坊やはどうかしら?』
『まぁ、それはそれは……』
小鳥の話を聞いたユキヒョウは、天を仰ぎ何かを呼ぶように高く鳴いた。
ほどなくして――。
『なになに? 大事なお話?』
雪原の向こうから小さな影が駆けてくる。
近づくにつれその姿が露になっていき、オルタンシアは思わず目を輝かせた。
(かっ、かわいい……!)
やって来たのは、まるで子犬のように小さなユキヒョウの子どもだった。
ふわふわの毛並みに、くりんと愛らしい瞳。
ちょこんと生えた牙に、小さなパンのように愛くるしい前足。
一目でオルタンシアは目の前の小さなユキヒョウに心を奪われてしまった。
『だれ? 見たことない人間だ』
足元までやって来たユキヒョウの子どもが、まじまじとつぶらの瞳でこちらを見上げている。
「あっ、私はヴェリテ公爵家のオルタンシアといいます」
『オルタ、シー……?』
どうやら小さなこの子には少々難しい発音だったのかもしれない。
オルタンシアはくすりと笑って、そっと視線を合わせるように屈みこんだ。
「シアでいいよ。前はそう呼ばれていたの」
『そっか。よろしくな、シア!』
ユキヒョウの子どもが上機嫌で前足を持ち上げる。
オルタンシアがそっと指先を重ね合わせると、ふに……と柔らかな肉球の感触が伝わって来た。
「ふへへへ……」
『ところでオルタンシア』
「はっ、はい!」
にやにやしているとユキヒョウの親に声をかけられ、オルタンシアは慌ててそちらに向き直った。
『まだ、あなたがどうして精霊を求めるのかを聞いていませんでしたね』
ユキヒョウの澄んだ青の瞳がじっとこちらを見つめている。
まるで心の奥を見透かされているような気がして、オルタンシアはごくりと唾を飲んだ。
「……少し前に、私は危険な目に遭いました。もう少しで死ぬところだったし、他の人が殺されていくのを止められませんでした」
記憶の奥に封じ込めていた凄惨な光景が、悲痛な絶叫が蘇る。
……もう二度と、あんなのはごめんだ。
「だから、強くなりたいんです。もう二度とあんな目に遭わないためにも、次は誰かを……大切な人を守れるように」