27 まどろみのオルタンシア
「……あの、ジェラール様」
「なんだ」
その日、ヴェリテ公爵家に雇われた教師の一人――パトリスは静かに冷や汗をかいていた。
目の前にいるのは公爵家の嫡男であるジェラール・ヴェリテその人である。
幼い頃から、彼は気難しい人間だった。相手が子どもだとわかっていても、彼の前に立つといつも身の引き締まる思いがした。
最初の頃は、恥ずかしながら随分と彼を恐れたものだ。だがジェラールは理由もなく他者を罰したりはしない。学習態度は真面目で勤勉。四大公爵家の跡継ぎの名にふさわしい、優れ才を秘めていた。
今や彼はパトリスにとって自慢の教え子だ。だが今、久方ぶりにパトリスは彼の前でおろおろと視線を彷徨わせていた。
豪奢なソファに腰掛けたジェラールはいつもと変わらず、涼しい顔で教本に視線を落としている。
だがその傍らでは、幼い少女――最近この屋敷に引き取られた公爵令嬢オルタンシアが、彼にもたれかかるようにしてくぅくぅと穏やかな寝息を立てていたのだ。
「………………」
あまりにも似合わな過ぎる光景である。
これが普段から仲の良い兄妹であれば微笑ましいことこの上ないのだが、パトリスの知る限りジェラールとオルタンシアの間にほとんど交流はなかったはずだ。
それどころか、あの氷のように冷たいと評判のジェラールが!
たとえ実の妹相手だろうが、このようにべたべたに甘やかすなんて!!
オルタンシアが誘拐され、ジェラールにも何か心境の変化があったのだろうか……。
このまま何も気にしていない振りをして授業を進めることは可能だ。
だが……つい口を挟んでしまった。
「あの、お嬢様をお部屋にお連れした方が――」
「問題ない。授業を続けろ」
「承知いたしましたー!」
口を挟んだ途端ギロリと睨まれ、パトリスは一瞬でその剣幕に竦みあがってしまった。
カチコチと固まりながらもぎこちなく授業を進めていく。
そんな緊迫した空気の中でも、オルタンシアは穏やかにすやすやと眠っていた。
「ふわぁ……あれ?」
心地よい眠りから目覚め、オルタンシアはふと違和感を覚えた。
室内が随分と暗い。おかしい、今は昼間だったはずだが……。
「起きたのか」
「わわっ!?」
急に傍らから声をかけられ、オルタンシアは思わず飛び上がってしまった。
「お、お兄様……!?」
見れば、ジェラールがいつものように表情一つ変えず、じっとオルタンシアを見つめていた。
(あれ、私……お兄様とお話していたはずじゃあ……まさか!)
事態を悟ったオルタンシアは青くなった。
屋敷内をふらふらしていたら偶然ジェラールと会い、次の授業のために予習をしていた彼の隣に腰掛け、とりとめのない話をしていたら……いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
オルタンシアが眠る前はまだ昼過ぎだったが、今はもう夕日が沈みかけている。
(そんな、私……みっともなくグースカ寝てお兄様にご迷惑を!)
「も、申し訳ございませんでした……」
身を縮こませてそう謝ると、ジェラールの手がぬっとこちらへ伸びてくる。
反射的にびくりと身を竦ませたが、ぽん、と優しく頭に手が置かれ思わず力が抜けてしまう。
「別に、構わない」
「でも、お兄様のお勉強の邪魔に――」
「授業なら問題なく遂行した。お前が寝ていたところでなんの問題もない」
(うぅ、申し訳ございませんでした先生方……)
きっとジェラールの隣で寝ていたオルタンシアを目にした教師は、ひどく驚いたことだろう。
心の中で彼らに謝っていると、ジェラールが再びぽんぽんとオルタンシアの頭を不器用に撫でた。
「……まだ、夜はあまり眠れていないのだろう。睡眠を取れる時に取っておけ」
こちらを案じる言葉に、オルタンシアの胸はじんわりと熱くなった。
「…………はい」
頭を撫でる手つきはひどく不器用だ。だが……彼がオルタンシアの身を心配してくれているということがはっきりとわかる。
二度目の人生は、少しずつ変わり始めている。
良い方向に進んでいるのか、悪い方向に進んでいるのかはわからない。
だが、はっきりと言えるのは……。
(少なくとも、お兄様との関係は前より近づいているよね)
頭上に手のひらの感触を感じながら、オルタンシアは安堵の息を吐いた。
(でも、私ももっと強くならなきゃ)
オルタンシアの第一目標は、とにかく生き延びることだ。
今回はたまたまジェラールが助けてくれたが、オルタンシアの危機にいつも彼が駆けてくれてくれるとは限らない。
誘拐事件のように、予期せぬ危険に巻き込まれることもあるだろう。
だから……自分の身は自分で守れるようにならなければ。
(よし、頑張ろう!)
そう決意してジェラールの方を見返すと、彼は不思議そうに瞬きをした。