26 おやすみなさい
その時オルタンシアは、寝間着のまま髪もぐちゃぐちゃでベッドの上で膝を抱え、とても「淑女」とは程遠い酷い有様だった。
アナベルはそんなオルタンシアを見て、何かを堪えるようにぎゅっと表情を引き締めた。
きっと今のオルタンシアのだらしなさにお小言を言うのだろう。
そう思ったが、どうにも身だしなみを整える気にもなれずに、オルタンシアはぼんやりとこちらへ近づいてくるアナベルを眺めていた。
彼女はオルタンシアのベッドの手前でぴたりと足を止める。
そして……次の瞬間その場に崩れ落ちた。
「お嬢様……よくぞ無事に戻って……!」
「ア、アナベル……!?」
いつもキリッとした彼女の初めて見る姿に、オルタンシアは慌ててしまった。
おそるおそるアナベルの方へ手を伸ばすと、その手をぎゅっと握られる。
更にはその手にぽたりと涙の雫がこぼれ落ち、オルタンシアは仰天してしまった。
(あのアナベルが泣いてる……!? 私がこんなにみっともない格好だから……?)
「あの、ごめんなさいアナベル。私――」
「お嬢様が謝罪しなければならないことなんて何一つございません!」
アナベルがすごい剣幕でそうまくしたてたので、またしてもオルタンシアは仰天してしまった。
「お嬢様が生きてここに戻っていらした……それだけで、十分なのです」
涙をこぼしながら、アナベルは何度も何度もそう言った。
その言葉に、オルタンシアの胸もじんわりと熱くなる。
(あぁ、私は……もしかしたら、大切なことを見逃していたのかもしれない)
アナベルはいつもオルタンシアに厳しかった。
だからオルタンシアは、彼女は自分のことが嫌いなのだと思い込み、恐れていた。
だが、きっとそれだけではなかったのだ。
アナベルがオルタンシアに厳しくするのは、それが彼女の職務だからだ。
社交の場に出た時に、オルタンシアが恥をかいてはいけないと思い、淑女の何たるかを厳しく教え込んでいたのだろう。
おかげで、二度目の人生のオルタンシアは社交の場であるお茶会に出ても、恥をかくことはなかった。
本当にオルタンシアのことがどうでもよかったのなら、公爵令嬢たるオルタンシアの機嫌を損ねないようにもっと適当に接することもできただろう。
だが、彼女はそうしなかった。
オルタンシアに嫌われ、自らの地位を追われる危険を冒してでも、オルタンシアを鍛え上げてくれたのだ。それこそ、心からオルタンシアの行く末を案じているからに他ならない。
もしオルタンシアがもっと逃げずにアナベルと向かい合っていたら、もっと早くに彼女の真意に気づけたかもしれない。
オルタンシアは自分も泣きたいような気分に襲われながらも、ぎゅっとアナベルの手を握り返した。
「……ありがとう、アナベル。私は大丈夫……とは言い切れないけど、もう少し落ち着いたらあなたのレッスンも再開したいわ」
「えぇ、えぇ! いつでもお待ちしております……! ですが、今はゆっくり休んでください。お嬢様には身も心も休息が必要なのですから」
涙ながらにそう告げるアナベルに、オルタンシアはゆっくりと頷いた。
そんなわけで、特にすることがないオルタンシアは日がな一日ぼんやりしていた。
だが、集中することがないと逆にふとした瞬間に嫌な記憶を思い出してしまう。
気分転換に、オルタンシアは庭へ出ることにした。
パメラについてきてもらおうかとも思ったが、ちょうど彼女は仕事でどこかに行っているようだ。
いくら公爵邸の敷地内とはいえ、寝間着で出るのははばかられる。
仕方なく簡素なドレスに着替え、オルタンシアはふらふらと部屋の外へとさまよいでたのだった。
庭園へとたどり着いたオルタンシアが向かったのは、ジェラールの命で植えられたシャングリラの花壇だった。
幻想的な蒼の花を、ぼんやりと眺める。
……いったいどのくらい時間が経ったのだろうか。
背後からこちらへ近づいてくる忙しない足音が聞こえ、オルタンシアははっと我に返った。
何事かと振り返り……オルタンシアは仰天してしまった。
いつも以上に険しい表情のジェラールが、ずんずんと早足でこちらへ近づいてくるではないか。
瞬く間に目の前までやって来たジェラールは、オルタンシアの一歩手前で立ち上りこちらを見下ろしている。
その絶対零度の視線が自分を責めているように感じられて、オルタンシアは思わず息をのむ。
「お、お兄様……」
ジェラールの手がぬっとこちらへ伸びてきて、反射的にオルタンシアはぎゅっと目を瞑りびくりと身を竦ませた。
だが……オルタンシアが予期したような気配はなく、ぽん、と優しく頭に手が置かれただけだった。
「……お前がいなくなったと、お前の部屋付きのメイドが半狂乱で騒いでいた」
「あ……」
そこで初めて、オルタンシアは書置きも残さずに部屋を出てきてしまったことに気が付いた。
「あの……私は大丈夫だって、パメラに知らせていただけますか?」
通りがかった庭師を呼び止めそう頼むと、珍しくジェラールが口添えしてくれた。
「用が済んだら俺が部屋へと送っていく。そのメイドには部屋で待機しているようにと伝えろ」
「はっ、承知いたしました」
ジェラールから直に命を受けたのに緊張したのか、庭師はぎこちない動きで去っていく。
庭師の姿が見えなくなると、その場を沈黙が支配した。
時折風が草花を揺らす音と、鳥や虫の声だけが響く穏やかな空間だ。
ジェラールは何も言わなかった。
ただ、じっとシャングリラの花を見つめるオルタンシアの傍に寄り添っていた。
「……眠れないんです」
気が付けば、オルタンシアはそう口に出していた。
「いつも、怖い夢を見てしまって。もしかしたら私は、今もあの場所にいるんじゃないかって思ってしまって……眠るのが、怖いんです」
こんなことを言われても、ジェラールだって困るだろう。
そうはわかっていても、止められなかった。
「もしかしたら、またあの場所に引きずり戻され――ひゃっ!」
言葉の途中で急激な浮遊感に襲われ、オルタンシアは素っ頓狂な声を上げてしまった。
「お、お兄様!?」
なんとジェラールは、いきなりオルタンシアの体を抱き上げたのだ。
一度目の人生も、二度目の人生を合わせても、彼にこんな風にされたのは初めてで、オルタンシアは一気に混乱してしまった。
「あっ、あの……」
「見ろ」
たった一言そう言って、ジェラールは公爵邸のだだっ広い庭園の方を指し示した。
おそるおそるそちらへ視線をやり……オルタンシアは思わず感嘆の声を上げた。
「きれい……」
公爵邸の美しい庭園が、夕日を浴びて一面黄金色に輝いている。
オルタンシアの小さな背丈では決して見られなかった光景だ。
「ここが、お前の居場所だ」
ジェラールは静かにそう告げた。
その言葉がすっと胸の奥深くに染みわたり……オルタンシアは不覚にも泣きそうになってしまう。
「私……ここにいてもいいですか」
「父上がお前を迎え入れると決めた以上、誰もその決定に異を唱えることは許されない。もしもそんな奴がいたら……俺に言え。すぐに消してやる」
それは、控えめながらもジェラールがオルタンシアを「公爵家の一員」だと認める言葉だった。
じわりと涙が滲んできて、オルタンシアはぎゅっとジェラールの肩口に顔を埋めた。
……二度目の人生は、うまくいったと思ったら最悪のルートに進んだり、オルタンシアも予期せぬ方向へと流されることもある。
でも、一体なぜかはわからないが……少なくとも、ジェラールはオルタンシアのことを受け入れてくれているようだ。
たったそれだけで、何もかもが報われるような気がした。
「……ありがとうございます、お兄様」
小声でそう呟いて、オルタンシアは義兄の肩に顔を埋めたままそっと目を閉じた。
そしてそのまま……ここ数日得られなかった穏やかな眠りへと落ちていったのだった。
不思議と、悪夢はみなかった。
やっといい感じになってきました!
ストックが減ってきたので次回からちょっと更新頻度を下げさせていただきます。