25 悪夢
……明るくて、暖かい。
これは夢だろうか。
そうだ。きっと自分はまだあの薄暗くて寒々しい牢に囚われていて、優しい夢を見ているんだろう。
だったら、覚めたくはない。
もう少し、この柔らかな夢に浸っていたい。
オルタンシアは目覚めに抵抗するように、ぎゅっと毛布を手繰り寄せた。
肌触りのよいシルクの毛布は、オルタンシアに確かな安心感を与えてくれる。
換気のために開けられた窓からは爽やかな風が吹き付け、外からは小鳥の泣き声が聞こえてくる。
パタパタと室内を歩き回る足音はパメラのものだろうか。
そっと手を伸ばすと、いつも一緒に寝ているクマのぬいぐるみに手が届いた。
引き寄せると、オルタンシアの大好きなにおいがした。
……なんて、リアルで幸せな夢なんだろう。
きっと目を開ければ、視界に映るのは固く冷たい石の壁と、武骨な鉄格子に決まっている。
目を開けたくない。でも、もしかしたら……オルタンシアは悪い夢から覚めて、いつもの日常を取り戻すことができるかもしれない。
すぐそこにパメラがいるはずだ。
パメラの淹れてくれたちょっぴり渋い紅茶と一緒に、お気に入りのお菓子を食べたい。
「レッスンの時間です」とアナベルが呼びに来たら、慌てて立ち上がってにっこり笑ってみせるのだ。
今日は父と一緒に晩餐をとることができるだろうか。
なんだか無性に彼と話したかった。
(それと、お兄様に――)
脳裏のジェラールの冷たい表情が蘇る。
それと同時にフラッシュバックする、悲鳴、怒号、剣戟の音、ジェラールの装束を濡らすおびただしい鮮血――。
(っ――夢、じゃない!?)
あの時の光景を思い出し、オルタンシアは悲鳴を上げて飛び起きた。
その途端、窓際の花瓶の花を替えていたパメラが驚いたように花瓶を倒してしまった。
幸い割れはしなかったものの、零れた水が伝い落ち、絨毯を濡らしていく。
とっさに「手伝わなくては……」と、オルタンシアがベッドから立ち上がろうとした途端――。
「お、お嬢様……!」
ぶわっと涙を浮かべて、パメラが飛びかかって来たのだ。
「はひっ!?」
オルタンシアは思わず身構えてしまった。
突進する勢いでこちらへ突っ込んできたパメラは……つぶれそうなほど強い力でオルタンシアを抱きしめたのだ。
「あぁお嬢様、お嬢様……! よかった、もう目覚めないかと……」
「パ、パメラ……苦しいわ」
「わっ!? すみません、私ったら!」
オルタンシアが訴えると、パメラは慌てたようにオルタンシアの小さな体を解放した。
そして涙を拭うと、はっと気が付いたように立ち上がる。
「そうでした! 私、お嬢様がお目覚めになったことをを皆様に報告してきます!!」
そう言うやいなや、パメラはバタバタと足音を響かせてオルタンシアの部屋を出ていった。
その背中が見えなくなったところで、オルタンシアはおそるおそる自分の体を見下ろした。
(生きてる……よね?)
わきわきと指を動かし、ぱたぱたと足を動かし……オルタンシアは自分の体がどこも正常に動くことを確認した。
そうしているうちに、部屋の外がにわかに騒がしくなる。
「オルタンシア!」
扉を蹴破るようにして真っ先に部屋に入って来たのは、オルタンシアの父であるヴェリテ公爵だった。
「お父様!」
「あぁオルタンシア。よかった……。君が無事に戻って来たことが私は何よりも嬉しいよ」
「お父様、私……」
オルタンシアは自分の身に何があったのか説明しようとした。
だがその途端、おぞましい記憶がフラッシュバックしてひっと息をのむ。
暗く冷たい牢獄。生贄にされた者たちの絶叫、不気味な魔法陣、床に広がる鮮血、そして――。
「大丈夫だ、オルタンシア。何も言わなくていい」
父は安心させるように、優しくオルタンシアを抱きしめてくれた。
「あの場所に何があったのかはジェラールにすべて聞いた。君を閉じ込めていた奴らも、もういない。……すべて終わったんだよ、オルタンシア」
「終わった……?」
「あぁ、だから何も思い出さなくていいんだ。しばらくはゆっくり休むといい。大丈夫、ここには君を傷つけようとする者は誰もいない」
オルタンシアはぎゅっと父に抱き着いた。
――「こには君を傷つけようとする者は誰もいない」
少し前までは恐ろしくてたまらなかった公爵邸が、まるで世界で一番安心できる場所のように感じられた、
案外冷静だったつもりだが、どうやらオルタンシアは例の誘拐騒動で思ったよりも心に傷を負っていたようだ。
まず、暗い場所が恐ろしくてたまらなくなった。
どうしてもあの牢獄を思い出してしまい、それに伴いおぞましい記憶がよみがえってくるからだ。
夜もパメラに頼んで灯りを落とさないままベッドに入る。
それでも、なかなか寝付けなかったし、寝付いたとしても襲い来る悪夢に悲鳴を上げて飛び起きることも少なくない。
悪夢の中では、オルタンシアはあの牢獄の中にいた。
そして記憶と同じように連れ出され、拘束され……あの時とは違い、ジェラールの助けは訪れない。
それどころか、オルタンシアの足元に無数の亡者が絡みつき、恨みがましい声で囁くのだ。
『なんで助けてくれなかったの』
『どうしてお前だけ』
『許 さ な い』
悪夢を見た後は、眠るのが怖くなる。
柔らかな毛布にくるまり、ぬいぐるみを抱きしめ……震えながら朝を待つしかないのだ。
おかげで体調は優れないし、目の下には濃いクマができるし、散々だ。
だが、少しだけいいこともあった。
オルタンシアが公爵邸に戻ってきた翌日、教育係であるアナベルがオルタンシアの私室を訪れたのだ。