24 救出
(ちょっと待って、魔神って……今は封印されてるはずだよね?)
世界の災厄を引き起こす魔神は、はるか昔に星神教の神々との争いに負け、地中深くに封印された……と伝えられている。
もしも魔神が復活したら、世界は大変なことになってしまうだろう。
(そんな、そんな恐ろしいことをこの人たちは……)
言葉を失うオルタンシアに、仮面の男はにやりと笑う。
そして、背後に控える者たちに命じた。
「連れていけ」
「やっ、やめて!」
オルタンシアは必死に逃げようとしたが、狭い牢の中に逃げる場所などあるわけがない。
何本もの手が伸びてきて、瞬く間にオルタンシアは捕らえられてしまった。
「さぁお嬢様、こちらへどうぞ」
「ヒッ!」
バタバタと手足を振り回して抵抗したが、仮面の者たちは意に介した様子もなくオルタンシアを運んでいく。
やがてたどり着いたのは……床の中心に奇妙な紋様の描かれた、石造りの広間のような場所だった。
(これは、何かの魔法陣……?)
床の模様の周りには、円を描くように等間隔にロウソクが置かれている。
部屋の中には拭いきれなかった血痕があちこちに残っており、なによりも……濃厚な「死」の気配が充満していた。
いや、それだけじゃない。
とてつもなく強大な、おぞましい気配がすぐ近くに感じられ、オルタンシアは息を飲んだ。
(まさか、本当に魔神が復活しかけてるの……!?)
魔神崇拝教団の者たちは、この場所で幾人もの生贄を捧げてきたのだろう。
その結果、魔神の封印が解かれかけているのかもしれない。
(私がここで殺されれば、大変なことに……!)
あまり役には立っていないが、今のオルタンシアの身には女神アウリエラに与えられた加護があるのだ。
この状態で魔神に捧げられてしまえば、きっと大きな糧になってしまうことだろう。
オルタンシアは必死に逃げようとしたが、無駄だった。
紋様の中心には拘束具があり、オルタンシアの抵抗むなしく四肢を拘束されてしまう。
ここに連れてこられてから、何度も聞いた絶叫。今度はオルタンシアの番なのだろう。
みっともなく泣きわめきたくなるのを堪え、オルタンシアは気丈に仮面の男を睨みつけた。
「……あなた方のやろうとしていることは、全て無駄に終わります。ヴェリテ公爵家は……ジェラールお兄様は決して、あなた方のような者を許しはしません」
そう言い放つと、仮面の男はひどく嬉しそうに歪んだ笑みを浮かべた。
「まだそんな虚勢を張ることができるとは……わたくし、感服いたしました。あぁ、魔神に捧げるのが惜しくなるほどですよ! ですが……そろそろお別れの時間ですね」
背後に控えていた仮面の者たちが、不気味な暗唱を始める。
それと同時に、目の前の仮面の男は懐から銀色に鈍く光るナイフを取り出した。
「あぁ、きっとお嬢様のような方はその肌の下を流れる血も、内臓もすべて美しいのでしょうね……。この手で暴くことができるのを光栄に思いますよ」
常軌を逸した妄言を口走りながら、仮面の男が一歩一歩近づいてくる。
その光景を、オルタンシアは必死に歯を食いしばり、睨みつけていた。
――「真の淑女たるもの、いついかなる時でさえ気を抜いてはなりません」
できれば最期までその教えを守っていたかったが……仮面の男がナイフを振り上げた瞬間、オルタンシアは襲い来る恐怖に負けてしまった。
「助けて……お兄様っ!」
とっさにそう叫んだ時だった。
一瞬で、視界からすべての光が消え辺りが漆黒の闇に包まれる。
オルタンシアは恐怖で自分の目がおかしくなったのかと思った。
だが……。
「なっ、どうなっている!? すぐに灯りを……ぐふっ」
目の前の仮面の男が狼狽したように叫び……なぜかその言葉は途中でうめき声へと変わった。
オルタンシアが事態を理解する前に、ぱっと視界に光が戻ってくる。
果たして目の前には、先ほどと変わらず仮面の男がいた。
……胸元から、鋭い剣の刃先が突き出た姿で。
「ぐ、は……」
仮面の口元からごぽりと鮮血が溢れ出る。
それと同時に、仮面の男の体はぐらりと揺らぎ、床へと倒れ込んだ。
そこで初めて、男の背後に居る者――背後から一突きで仮面の男を突き殺した者の正体が露になる。
オルタンシアは信じられない思いで、呆然と彼を見上げた。
「お、兄様……?」
今まさに、オルタンシアを死の淵から救い上げた者――オルタンシアの義兄、ジェラールは、少しも表情を動かさず仮面の男の体から剣を抜いた。
鋭い銀の剣からぽたぽたと赤い血が滴っている。
だが彼はその血を拭うこともせず、まっすぐにオルタンシアを見つめている。
二人の視線が絡み合う。
その時ばかりはこの場の状況も、たった今殺されかけていたことも忘れ、オルタンシアはまるで時間が止まったかのような錯覚を覚えていた。
ジェラールの冷たく、そして美しい瞳がじっとこちらを捕らえている。
少し前まではあんなに怖かったその視線に、オルタンシアはまるで世界で一番の宝物を見つけたような気分で吸い寄せられていた。
だがすぐに、静寂を切り裂くように多数の声が響いた。
「乱入者か!?」
「相手は一人だ! 殺せ!!」
残っていた仮面の者たちが、おのおの武器を手に襲い掛かってくる。
オルタンシアは悲鳴を上げてしまったが、すぐにジェラールがオルタンシアを庇うように間に陣取った。
そして、ここに来て初めて彼は口を開いた。
「……目を閉じていろ」
不思議と、抗えない響きを持つ声だった。
その声に従い、オルタンシアは反射的にぎゅっと目を閉じる。
怒号、剣戟、断末魔……だが、それもすぐに過ぎ去った。
やがて静かになったかと思うと、オルタンシアの傍らに誰かの気配を感じる。
「終わった。もう目を開けても大丈夫だ」
その声に、オルタンシアはそっと閉じていた瞼を開く。
視界に映るのは、じっとこちらを見下ろしているジェラールの姿だ。
彼の装束はおびただしいほどの血に濡れていた。
それだけで、オルタンシアは自分が目を閉じている間に何が起こったのかを理解した。
血に染まった剣を手に、ジェラールをオルタンシアの体を戒めていた拘束具を破壊していく。
すべてを破壊し終えると、ジェラールはオルタンシアの方へ手を伸ばし……その指先がオルタンシアの体に触れる直前で、戸惑ったように動きを止めた。
彼の視線が捕らえているのは、自らの指先――他者の返り血で、真っ赤に染まった指先だ。
ジェラールは自らの手を見つめ、驚いたように目を開き……すぐに苦渋を感じさせるように眉をひそめた。
そして、そっとオルタンシアへと伸ばした手を引いていく。
……まるで、返り血に染まった手でオルタンシアに触れることを禁ずるかのように。
だが、オルタンシアは我慢できなかった。
ジェラールはオルタンシアを絶望の淵から救い出してくれた。
たとえその手が何人の血に染まっていようとも関係ない。
彼に触れたい。暖かな人のぬくもりを感じたい。
そんな思いに突き動かされるように、オルタンシアは自らジェラールの胸元に飛び込んだ。
「お兄様!」
ジェラールはオルタンシアの行動に驚いたように目を見開いたが、決して突き放したりはしなかった。
べっとりと血に染まった装束越しに、彼の暖かな体温を感じる。
「お兄様、お兄様……!」
様々な感情がごちゃまぜになって、オルタンシアは何を言いたいかもわからないままにジェラールを呼び続けた。
やがて、一瞬だけ戸惑うようにジェラールの手がオルタンシアの背中に触れた。
そして、こわごわといった様子で、ぎゅっと抱きしめられる。
「……もう、大丈夫だ」
頭上からそう声が聞こえた途端、オルタンシアは安心して目を閉じ……すぐに意識を手放した、