23 ちょっと、女神様のせいじゃん!
そっと耳を塞いでいた手を離すと、もう悲鳴は途絶えていた。
だが今度は、魔神崇拝者のものと思わしき不気味な暗唱の声が聞こえてくる。
次の瞬間にでも彼らがやってきて、オルタンシアをここから引きずり出し、魔神への供物として残虐に殺されてしまうかもしれない。
そんな恐怖と戦いながら、オルタンシアは必死に女神への祈りを捧げた。
(どうか助けてください、女神様……)
(誰でもいい、ここから助け出して)
(助けて、誰か)
こうして狭い牢獄に閉じ込められていると、いやおうなしに一度目の人生――その終盤の一幕を思い出してしまう。
冤罪で捕らえられ、今と同じように牢獄へ閉じ込められ……きっと助かる、だって自分は何もしていないし、冤罪なのだからと、必死に自分に言い聞かせ続けた恐怖の日々のことを。
毎日、祈り続けた。だが、祈りは届かなかった。
やっと牢から出られた時には、もう処刑台へと一直線だったのだから。
きっと今回も、オルタンシアがこの牢獄から出られるのは自信の命を終える時なのだろう。
そんな想像が頭を支配して、オルタンシアは膝に顔を埋めガタガタと震えた。
(助けて)
(助けて)
(助けて……お兄様)
なぜか頭に浮かぶのは、こちらを冷たい視線で見据えるジェラールの姿だった。
だが今は、少しも恐ろしいとは思えなかった。
ほどなくして、運命の日はやって来た。
精神的な疲労が限界に達し、ぼんやりと意識を手放しかけていたオルタンシアは、こちらへ向かってくるいくつもの足音にはっと我に返った。
(お願い、来ないで……!)
そんな願いもむなしく、無情にも足音はオルタンシアの牢の前でぴたりと止まる。
(帰って、帰って……!)
俯いて震えながら、オルタンシアは必死にそう念じた。
「ご機嫌麗しゅう、ヴェリテ公爵令嬢」
「ヒッ……!」
だが、ねっとりした声が耳に届きひっと悲鳴を上げてしまう。
おそるおそる顔を上げると、格子の向こうから幾人ものローブと奇妙な仮面を身に着けた人間が、じっとこちらを見つめていた。
その異様な姿に、オルタンシアは今度こそ恐怖の悲鳴を上げてしまう。
(やめて、来ないで……!)
必死にそう願ったが、ゆっくりと錠のまわる音と、扉の開く重たい音が無情にも響く。
「あぁ、そんなに怯えないでください、ヴェリテ公爵令嬢」
仮面をかぶった男が一人、怯えるオルタンシアを見下ろしねっとりと笑う。
(やっぱり、私が公爵令嬢だとわかった上で誘拐したのね)
たとえ引き取られたばかりだとはいえ、公爵家のご令嬢が行方不明になれば大騒ぎになるだろう。
彼らはそれも覚悟の上で、あえてオルタンシアをターゲットにしたのだ。
今すぐ泣きだしたいのを堪えながら、オルタンシアは必死に顔を上げ男を睨みつける。
「なぜ、私を誘拐したのですか」
みっともなく声が震えないように力を籠め、オルタンシアはそう問いかける。
すると、仮面の男は愉快でたまらないとでもいうように笑った。
「さすがは公爵家のご令嬢、もっと泣きわめくかと思っていたのですが……よろしい。あなたをここへお連れした訳をお教えしましょう」
仮面の男はくつくつと笑い、格子の向こうの奇妙な紋様を指し示した。
「聡いお嬢様ならばもう感づいていらっしゃるかと思いますが、我々はあなたがたが『魔神』と呼ぶ存在を崇めております」
「……えぇ、そのようね」
オルタンシアは爪が皮膚に食い込むほど、強く拳を握り締めた。
……そうしていないと、情けなく泣き叫んでしまいそうだったからだ。
たとえここで死ぬとしても、ヴェリテ公爵家の令嬢としての矜持は曲げたくない。
(「真の淑女たるもの、いついかなる時でさえ気を抜いてはなりません」――そうよね、アナベル)
あれほど恐れていたはずのアナベルの顔を思い出すと、なぜだか勇気が湧いてくる。
気丈に顔を上げるオルタンシアを見て、仮面の男は嬉しそうに続けた。
「お嬢様もご存じの通り、我々は常に『魔神』へ捧げる贄を欲しております。そしてヴェリテ公爵令嬢、あなたこそ我々が求めていた至上の贄となるでしょう」
「……なぜ、そう思ったのかしら」
「『魔神』が求めるのは強く、清らかな人間です。王族に匹敵する洗練名を授かったあなたであれば、『魔神』もきっと満足なさることでしょう」
(ちょっと、女神様のせいじゃん!)
彼らの言い分を聞く限りは、オルタンシアがターゲットになったのは女神から強い加護を授けられたから……のようだ。
(女神様、世界が大変なことになるから止めて欲しいみたいなことおっしゃってましたよね!? むしろ最悪のルートを辿ってるような気がするんですけど!?)
まさか女神がオルタンシアに授けた力のせいで、オルタンシアが窮地に陥るとは。
運命の無情さに、オルタンシアは歯噛みせずにはいられなかった。
「あぁ、きっとあなたほどの逸材を捧げれば、『魔神』も完全に復活することでしょう!」
「え……?」
仮面の男が恍惚と話す内容に、オルタンシアは一瞬恐怖も忘れて唖然としてしまった。