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100 こんなに近くにいるのに

(そんな、どうして……)


 オルタンシアは瞬きもできずに、ただ呆然と現れたジェラールの姿を見つめることしかできなかった。

 だが、驚いていたのはオルタンシアだけではなかった。

 ジェラールもまた、いつも冷静な彼にしては珍しく、目を見開いてオルタンシアを凝視していた。

 しばらくの間、二人は言葉を発することもできずにただ互いの姿を見つめ合っていた。

 そんな空気を切り裂いたのは、リニエ公爵の一言だった。


「おやおや、どうやらお二人ともご存じなかったようですな。これも運命でしょうか」


 その言葉で、先に我に返ったのはジェラールだった。


「……まさか、オルタンシアがあなたのもとを訪れていたとは思いませんでした」


 感情を押し殺したかのような抑揚のない声で、ジェラールはそう口にする。

 その言葉に、リニエ公爵は愉快そうに口角を上げた。


「オルタンシア嬢は思った以上に聡明な御方のようで。さすがはジェラール殿の妹君でいらっしゃいますな。……私も、彼女のことが気に入りましてね」


 リニエ公爵の視線がこちらを向き、オルタンシアはびくりと体が震えそうになるのをなんとか堪えるので精一杯だった。


(どうして、お兄様がリニエ公爵と……?)


 二人の様子を見る限り、これが初対面だとは思えない。

 リニエ公爵は邪神崇拝教団に通じている危険な人物だ。

 そんな相手に、ジェラールはオルタンシアよりも先に接触していた。


(いけない、お兄様に魔神の魔の手が……!)


 オルタンシアの目の前で、リニエ公爵とジェラールは親しげに言葉を交わしている。

 それが、何よりも恐ろしかった。


(駄目、お兄様、そっちに行かないで……!)


 まるでジェラールが手の届かないところに行ってしまうような気がして、とてもじゃないが平静ではいられない。

 とにかくジェラールをこちらに引き戻したくて、オルタンシアはとっさに一芝居打つことにした。


「っ……!」


 小さく声を上げ、表情を歪めながらこめかみを押さえる。

 すると、狙い通りリニエ公爵とジェラールの注意を引くことができた、


「ヴェリテ公爵令嬢、どうなさいましたか?」

「申し訳ございません、少し頭痛が……」

「それはいけませんな。すぐに休める場所を――」

「いえ、屋敷に特別に調合してもらった薬がありますの。名残惜しい限りですが、本日はお暇させていただきますわ」


 怪しまれないように朗らかな笑みを浮かべながら、オルタンシアはリニエ公爵に近づく。

 そして、嫌悪感を押し殺し彼の手を取った。


「わたくしを同志に迎え入れてくださったこと、光栄の至りに存じます。どうか、閣下の進む未来に幸があらんことを」


 そう言って微笑むと、リニエ公爵は機嫌よさそうに笑った。


「こちらこそ、あなたのように美しく聡明な御方を迎えることができて僥倖ぎょうこうです。個人的にも、あなたとは親しいお付き合いができれば幸いですね。あなたはいずれ、私の幸運の女神となってくださるでしょう、オルタンシア・アルティエル・ヴェリテ嬢」


 そう言って、リニエ公爵はオルタンシアの手の甲へと唇を落とした。

 その感触に全身に鳥肌が立つのを感じながらも、オルタンシアは必死に淑女の微笑みをキープする。

 そして、ちらりとジェラールの方へ視線をやる。

 ジェラールは、感情の読めない冷たい瞳でこちらを見ている。

 その姿はまるで、一度目の人生でオルタンシアを見捨てた時のようだった。


 ――「黙れ、公爵家の恥さらしめ。……俺は一度たりとも、お前を妹などと思ったことはない」


 あの時の絶望が胸をよぎり、思わずオルタンシアの背に冷たいものが走った。


(なんとか、ここからお兄様を引き離さなきゃ……!)


 リニエ公爵は危険だ。一刻も早く、ジェラールをここから連れ出さなくては。


「お兄様、大変申し訳ありませんが……差し支えなければ、屋敷まで送ってはいただけませんか?」


 いかにも無邪気な妹という空気を醸し出しながら、オルタンシアはジェラールにそう頼み込んだ。

 ジェラールは表情を変えず、相変わらず冷たい瞳でオルタンシアを見ている。

 ……少し前の彼だったら、こんな時はオルタンシアから言い出さなくてもこちらを気遣ってくれていたのに。

 そんな彼の変化が恐ろしくてたまらない。

 だがオルタンシアの表情が引きつりかけた時、助け船を出してくれたのはリニエ公爵だった。


「大切な姫君に何かあってはいけませんからな。ジェラール殿、どうか妹君に付き添って差し上げてください」

「ですが――」

「あぁ、この後の話し合いのことなら構いませんよ。また日をあらためて、お話いたしましょう」


 さすがのジェラールでも、リニエ公爵にそこまで強く言われたら、断ることはできないのだろう。


「……承知いたしました。それでは、またの機会に」


 ジェラールはリニエ公爵に向かって丁寧に頭を下げると、再びオルタンシアの方を向く。


「行くぞ」


 底冷えするような冷たい声で、たった一言だけ。

 彼はそう口にすると、さっさと歩き始めてしまった。

 オルタンシアは慌てて兄の背中を追いかける。

 ジェラールがこちらを振り向くことはない。

 それが、途方もなく寂しかった


(こんなに近くにいるのに、お兄様が遠く感じる……)

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