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ep1.そして誰も帰ってこなかった(前編)

 

 プロローグ


 早朝、辺りはまだ薄暗く、風は少し肌寒い。秋が顔を出し始めた10月の第1週である。


半袖シャツにハーフパンツと耳にはイヤホン。男性は、海沿いの道を走っていた。


 オレンジ色に光る街灯を1つ、2つと通り過ぎると、右手に駐車場が見えた。


 そこにはシルバーの乗用車が停まっていて、他に車は停まっていない。


 彼はその場で立ち止まり、目を細め車内を見た。


 運転席には、ワイシャツにネクタイをした会社員のような男性が眠っていた。


 きっと悩み事があってドライブで海まで来たあと、そのまま寝てしまったんだなと彼は思った。会社員のように見えるし、仕事に遅れては大変だと起こしに行った。


「あの〜もしもし」彼は運転席の窓ガラスを、数回ノックし言った。


 車内にいる男性の反応はなかった。


「もしもし」先程よりも強くノックしながら言った。


 反応はなかった。


 太陽が顔を出し、彼と車を照らした。彼は手をかざしているが、車内にいた人物は日光に何も反応を示さなかった。


 彼はもう一度、車内にいた人物を覗き込んだ。薄暗く見えなかった顔色が日光に照らし出された。男性の顔は白くなっていた。


「死んでる?」彼は眉に皺を寄せながら言った。


 彼は慌ててポケットから携帯電話を取り出すと、操作し耳にあてた。


 1


 携帯電話のアラームが午前6時を知らせた。


 布団から腕が1本出て、音の鳴る方へ手が伸びる。髪の毛がボサボサで、目が半開きの女性の顔が出てきた。


 大きな溜息とともに彼女は起床し、伸びをすると、肩回しを数回して気だるそうに洗面台に行く。


 身支度を終える頃に1本の着信が入った。


「おはようございます……はい、住所は……」彼女はカバンからメモ帳を取り出し、書き始めた。

「了解、すぐに向かいます」


 彼女は、テーブルの上に置いてある2つの写真立ての前に立ち止まり微笑んだ。


「行ってきます」


 写真立てには、それぞれ若い女性の写真と、男性が写されていた。


 クリーニングしたての黒いスーツに身を包んた彼女は、事件現場へ向かった。



 2


「最初に駆けつけた警官によると、第1発見者は、ジョギングをしていた男性。声をかけても反応がないことから警察と救急に連絡。その場で死亡が確認されました」


 女性刑事は、手元にあるメモ帳を見ながら報告した。


「遺体の身元は?」報告を受けた男性刑事は、車内の男性を見ながら無愛想に聞いた。


「運転免許証から明日俊一ぬくいしゅんいち、47歳です」


 刑事たちが駆けつける頃には、陽がでていて眩しいほどだった。鑑識が助手席側から入り、車内をカメラで撮影している。


「土田、おまえの見立ては」無愛想な刑事が聞いた。


「わたしたちが呼ばれたということは……殺人です糟良城かすらぎ警部」土田は相手の顔色を伺いながら言った。


「あぁ」糟良城警部は、土田を見て返事したあとに車内にいた遺体に視線を戻した。


「ここを見てみろ」


 土田は、警部の指さした方を見る。ワイシャツに綺麗な青いネクタイが締められている。


「車の中で寝るなら、ネクタイを緩めるか取って寝るもんだ。少なくとも俺はそうする」


 糟良城警部は、さらに続けた。


「それに両腕に拘束されたような痕がある」


「犯人は害者を動けないようにして殺害した」土田は糟良城を見ながら言った。


「あぁ」糟良城警部は言った。


「おまえはこれからご遺体と解剖室へ行って、解剖付き合ってこい。俺は家族に知らせる」


「わかりました」


 土田は、車内にいた男性を眉をひそめながら見ていた。


 3


 糟良城かすらぎ警部は、害者の自宅の前にいた。


 明日ぬくいと書かれた表札には、上から順に俊一、陽子、陽咲ひなたと書かれていた。家族構成であることは明らかだった。


 警部は、事件現場で見た俊一の左手薬指にめていた指輪を思い出しながらインターホンを押した。


 辺りを見ると住宅街。どこの家からも車はいなくなっていた。


 明日家は、車が2台分停まる駐車スペースがあり、庭には綺麗なコスモスが咲いていた。


 駐車場に車が1台停まっていることから、妻の陽子がいることが間違いないのだが返事がないので、警部は、再びボタンを押して呼び出そうとしたその時、


「はい……どちら様ですか?」


 インターホンから女性の声が聞こえた。疲れ切った声だった。


「〇〇署の、警察の者です」


 警部の声は穏やかだった。インターホンのカメラに見えるように手帳を見せた。


 玄関の戸が開く音がした。警部が見るとそこには、やつれた陽子の姿があった。


 赤いタートルネックに白いロングスカートで髪を後ろに縛っていた。


「立ち話をあれですから、お邪魔しても」


「ええ……ですね。どうぞ入って」


 明日家の中は、木のいい香りがした。入るとすぐ目の前に階段があった。警部は、陽子の後ろについていく形で廊下を歩き、リビングへ案内される。


「こちらに座ってください」


 陽子は、力のない声でソファに座るように促した。


「すぐにお茶をお出しするので」


「お構いなく」


 警部は、腰を下ろすと陽子に向かって言った。


 お盆にお茶をいれたコップを2つ置いた陽子が、テーブルにそれらを置き、向かい合うように腰を下ろした。


「夫は見つかったんですか?それで来たのでしょう?」


 立て続けの質問に糟良城警部は困惑した。


「捜索願を出されてたんですか?」


「ええ。それで来たんじゃないんですか」


 陽子も困惑している。


「担当した者にも言ったと思うのですが、もう一度、お手数ですが旦那さんがいなくなった時のことを話していただけませんか?」


 陽子は今にも泣きそうな表情だが、話してくれた。


「昨日、夜遅くになっても夫が帰らないので、心配になって何度も電話をしても連絡がつかなくて、夫の同僚にも電話をしても行き先に心当たりがないって」


 話しているにつれ、彼女の目に溜まった涙が溢れてきた。


「探しに行くことも考えたのですが、娘を家で1人にするわけには行かないですし、帰ってきてくれることを信じて待っていました。でも……もうどうしていいか分からなくて、警察に電話をしたら捜索願を出しましょうって言ってくれてたんです」


「何時頃に出されました?」


「日付が変わる前です。23時すぎだったと思います」


 帰りを待つ家族にこの知らせは酷だ。


「大変、申し上げにくいのですが、旦那さんは何者かに殺害されました」


 陽子は「嘘よ」と何度も言って、両手で顔を押さえ、先程までのすすり泣きから、大きな涙声に変わり、明日家のリビングの中で響いた。


 4


 土田刑事は、解剖室のある大学に来ていた。薄暗いが、白い蛍光灯が部屋を照らしている。室内は寒いくらいだった。


「おはようございます。慶都けいと先生」


 土田が頭を下げた。


「あれ、今日はまれちゃんだけ?」


 女性の監察医が土田の背後を見て言った。


「はい。警部は、家族へ知らせに」


「そう」


 慶都先生は大きく頷いた。マスクをしているためか反応が大袈裟である。


「ご家族に知らせるのは本当に心が痛い」


 そう言うと、慶都先生は解剖台に置かれた明日俊一ぬくいしゅんいちの前に立った。


「現在の時刻は8時42分」


 彼女は時計を見てから視線をご遺体に戻した。


「解剖を始めます」


 土田は少し離れたところから解剖の様子を見ていた。慶都先生が言った項目と数字を、別の監察医がホワイトボードに書いていく。


 解剖が終わり部屋から出ると、慶都先生がマスクやサージカルキャップを取った。40代には見えない肌に整った顔立ち。土田は見入っていた。


 後ろに結んでいた髪を解き、頭を数回振った。右手で左肩を揉む仕草をして土田刑事を見ると視線を少し下げて優しく微笑んだ。


「おつかれ」


「お疲れ様です」


 土田は軽く頭を下げた。


「お茶飲んでく?美味しいお菓子手に入ったんだけど」


「いえ、すぐに署に戻って警部に報告しないとですから」


「わかった。それじゃ気をつけてね」


 慶都先生は笑顔で手を振った。


「あっ。稀ちゃん、ちょっと待って」


「何ですか?」


 土田は振り返った。


「怒ってないから電話してってアイツに言っといて。言えばわかるから」


「はい」


 土田は困った表情で返事をした。


「それでは、失礼します」


「いってらっしゃーい」


 慶都先生は大きく手を振って、土田刑事を見送った。


 5


 糟良城かすらぎ警部は、明日俊一の妻、陽子と署に戻っていた。


「それでは、こちらで少々お待ち下さい」


 警部は、陽子を1階の会議室へ案内した。出入り口にいた婦警にそばにいるように伝えると、同階の鑑識課に足を運んだ。


「警部」


 糟良城警部と目が合うと、縁のない丸メガネをかけた鑑識課の女性が、姿勢を正しながら言った。


「緊張しなくていい。御手洗みたらい


 警部は、優しく言った。


「わかったことは?」


「はい、警部」


 御手洗の声に緊張は消えなかった。


「指紋はあとでご家族から頂いたものと照合するので……えっと……」


「車内に何か手がかりは?」


「ありません。犯人は痕跡を消していったようです」


「そうか……付近に防犯カメラは」


「ありませんでした。でも」


 御手洗はパソコンを操作した。


「これです。現場から数百メートル離れた、速度違反をした車を撮影したカメラです」


 糟良城警部はパソコンの画面を凝視した。御手洗は続けた。


「17時に撮られたものです。車の車種、ナンバーから明日俊一さんの車であることを確認。運転席に」


「あぁ。いるな」


「助手席を見てください」


「誰だ」


「黒い服に赤いロングスカートような服装、髪の長さから見て女性でしょう」


「いや……誰かはわかったのか?」


「顔認識にかけましたが画像が荒すぎて」


 御手洗が首を横に振った。


「助手席にいるこの女性はいったい何者なんだ?」


 6


「ただいま戻りました」


 土田刑事が鑑識課に入ると、糟良城かすらぎ警部に挨拶した。御手洗は、パソコンと睨むように見ていた。


「ご苦労」


 警部が言った。


「報告」


「はい」


 土田はカバンからメモ帳を取り出し、広げた。


「死因は、一酸化炭素中毒死で、死亡推定時刻は昨夜18時から20時です。あと……第3、第4の肋骨にヒビが。争った痕があるので自殺に見せかけた他殺だろうと言っていました」


「そうか。わかった」


「あと……」


 土田はおそるおそる手を挙げた。


「なんだ?」


 警部は、相手を見下ろした。


「怒ってないから電話してって慶都先生がおっしゃってました」


「わかった。後で電話しておく」


 警部は言った後に腕時計を見た。


「今から学校に行って害者の娘さんを迎えに言ってくれるか?学校の方へは俺がもう連絡をしてある」


「わかりました。行ってきます」


 土田が学校へ着くと、職員の駐車場に担任の先生と思われる女性教諭とともに明日俊一ぬくいしゅんいちの娘、陽咲ひなたが待っていた。


 教諭と目が合うと、土田は会釈した。警察手帳を見せ、自己紹介すると陽咲は俯いたまま、車の後部座席の方へ歩いていった。


 土田は、教諭に再び会釈をすると車の方へ行き、後部座席のドアを開けて


「頭、ぶつからないように気をつけてね」


 陽咲の頭がぶつからないようにガードした。彼女が乗り込むと大きい音が出ないように優しく閉めて、土田は運転席に乗る。


 バックミラー越しに見た陽咲は俯いていた。通学バッグを抱えるように持っている姿を見て、土田はどう声をかけていいのか分からなかった。


 署に着くと、土田は自動販売機の前で止まった。


「何か飲む?温かいのが良いかな?」


「いいです」


 陽咲の声は弱々しかった。


「お母さんはもう来てるんですか?」


「うん。来てるよ。案内するね」


 土田は、陽咲を1階の会議室へ案内した。婦警に陽子と陽咲のそばにいるように言うと、彼女は再び自動販売機の前に戻った。


 陽子に温かいお茶を、陽咲にはホットココアを買って2人に差し入れた。


 陽子は「ありがとうございます」と言って、陽咲は「ありがとう」と返事をした。


 土田は、辞去すると鑑識課に戻った。糟良城警部の姿はもう無かった。


「ねぇ、彩葉いろは。警部は?」


 土田は、御手洗の方を見て言った。


「わかんない」


 御手洗彩葉は、パソコンを操作しながら言った。


「そっか」


 土田は、近くにあった椅子に腰を下ろした。


「うーん」


「どうしたの?唸って」


 御手洗は、操作の手を止めてから振り返って聞いた。


「どっかで見たことあるのよ。今回の被害者の顔」


「えっ、どこで見たの?警部には報告したの?」


「してない。ハッキリ分かるまで報告はしないどこうと思って。思い出すの手伝ってくれない?お願い?」


 土田は、御手洗に向かって手を合わせた。


「指名手配犯ではないよね。警部がすぐ気づくはずだし」


 御手洗は言った。


「だとすると……行方不明とか失踪者とか?稀が過去に捜索願を受理した人物とか」


「調べてくれない?データベースで」


 土田が、御手洗の後ろにあるパソコンを指差す。


「最初からそれが狙い?」


 御手洗は、相手を睨んだ。縁のない眼鏡のせいか、表情がハッキリとわかる。


「お願い。同期のよしみで。事件が解決したら1杯奢る」


「わかった」


 御手洗は、振り返るとパソコンを操作した。


「いつぐらいか覚えてる?」


「2年くらい前だったと思う」


 パソコンのキーを数回叩く音とマウスのクリック音がしたあとに、「嘘」という言葉が聞こえた。


 土田がパソコンの方へ近づき、画面を見たあと、2人は顔を見合わせた。


「彩葉、今すぐこの画面、プリントアウトしてくれる?警部に報告に行かないと」


「わかった」


 土田は、携帯電話を取り出すと短縮ダイヤルで、耳にあてた。


「もしもし、警部?今どちらにいらっしゃいますか?……はい。今すぐそちらに向かいます」


 土田は、御手洗に「ありがとう」と言って鑑識課をあとにした。


 7


「すまなかった」


 糟良城かすらぎ警部は、ケーキ屋の美味しいプリンを持参し、慶都先生に謝りに大学に来ていた。


「わざわざ来ることなかったのに」


 慶都先生は瓶からコーヒーの粉をカップに入れていた。


明日俊一ぬくいしゅんいちさんはもう署に移動したわ」


「わかってる。聞きたいことがあってな。それだけ聞いたら戻る」


「聞きたいこと?」


 淹れたコーヒーをマドラーでかき混ぜながら言った。


「肋骨についてだ」


「第3、第4のヒビね。あぁ」


 慶都先生は何かを思い出したように言った。


「争ったあとだけどね、後頭部にコブがあったの。死亡する直前に出来たもの。肋骨は脇のあたりから手を回して強い力で抱き締めたんじゃないかな?」


 慶都先生は首を傾げたあと、両手でカップを持ってコーヒーを啜った。


「抱き締めた?」


「うん。こんなふうに」


 慶都先生はカップをテーブルに置いたあと、立ち上がり、糟良城警部の後ろに回り込んで、脇の下から腕を回し強い力で抱き締めた。


「失礼します」


 走ってきた土田が、息を整えながら言ったあと、目の前に広がる光景に固まった。

 

 監察医が上司にバックハグをしている。


「失礼しました」


 土田は、辞去した。


「待って」


 慶都先生は慌てた声で引き止めた。


「大丈夫ですよ。ご夫婦なんですからそういうことも……ね」


 2人とも、左手薬指に指輪をしていた。


「誤解だ」


 警部が言った。


「おまえが報告した肋骨のヒビについて聞いてた」


 土田は、警部の報告という言葉に何かを思い出したかのような顔で、カバンからプリントアウトした紙を取り出した。


「そうだ、これ見てください」


 警部は紙を受け取ると、慶都先生も隣に来て見た。


「どういうことだ?これは」


 警部は、土田を見ながら言った。


「明日俊一は2年前、雨笠俊一として捜索願が出されていたんです」


 プリントアウトされた紙には、明日俊一と瓜二つの見た目をした雨笠俊一という男性の写真が写されていた。

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