【8ー9】子猫にリボンをつけるように
なんだかとても幸せな夢を見ていた気がした。
夢の内容は覚えていないけれど、父が穏やかに笑っている姿だけは覚えている。
「…………おとうさん」
幸せな夢に微睡んでいたモニカは、肌寒さに身震いをした。冬も近い早朝の空気は、毛布の僅かな隙間からでも入り込んでくる。
もぞもぞと毛布の奥に潜り込んだモニカは、近くに温かな何かがあることに気づき、無意識にそちらに近づいた。ぴったりと体をくっつけるとポカポカと温かい。
(……でも、ネロにしては大きいような……うーん……)
よく分からないけれど温かいからまぁいいや、と考えることを放棄して微睡んでいると、モニカの髪を優しい手が撫でる。そして、頬にふにっと柔らかい何かが触れた。
この幸せな感覚をモニカはよく知っている。
「……あ、肉球…………おはよう……ネロ……」
「ネロって?」
すぐそばから聞こえた声に、モニカは一瞬で覚醒する。
目を限界まで見開いて声の方を凝視すれば、宝石のような碧い目がモニカを優しく見つめていた。
モニカは声にならない声を上げて、ベッドから転がり落ちる。それはもう、ダイナミックにゴロゴロと。
床に這いつくばるモニカの頭をよぎるのは、〈星詠みの魔女〉メアリー・ハーヴェイの予言。
──今のモニカちゃんは恋愛運絶好調! 素敵な殿方と熱〜い夜を過ごしちゃうかも☆
これはもしかして、もしかしなくとも、一線を超えてしまったというやつではないだろうか。
モニカは額を床に擦りつけ、震える声で言う。
「しょ、しょしょ、しょ、しょ」
「しょ?」
「処刑、ですか……?」
今にも死にそうな顔のモニカに、フェリクスは上半身をベッドの上で起こしたまま、クツクツと喉を鳴らして笑う。その上半身は何も身につけておらず、裸だ。
あの胸板に、あろうことかモニカは頬擦りをしてしまったのだ。これは首を刎ねられても、文句を言えない。
「君は可愛い子猫が寝台に入り込んだぐらいで、その子猫を殺すのかい?」
「……え? 猫?」
モニカは伏せていた顔を上げて、キョロキョロと辺りを見回した。だが、室内に猫の姿はない。
猫はどこに? 首を捻るモニカを、フェリクスは楽しそうにモニカを見ている。
「昨晩、君はワインを飲んだら、突然服を脱いで、そのまま寝てしまったんだよ」
そこでモニカは、ようやく自分が下着姿であることに気づいた。どうりで寒いわけだ。
とりあえず、一線を超えたわけではないらしいとモニカは安堵の息を吐く。
「その格好、寒くないかい?」
「あ、はい。お見苦しくて、すみません。すぐ、着替えま……あれっ?」
首元に違和感を覚え、指で触れてみれば、ネックレス特有の細い鎖の感触があった。そのまま視線を下に落とせば、胸元で小さな緑色の石が朝日を反射してキラキラと輝いている。
モニカが困惑顔でフェリクスを見ると、フェリクスは立てた膝に頬杖をついて、目を細めた。
「やっぱり、君の目の色に似ているな。よく似合う」
「あの、これは……?」
「君はアクセサリーを貰っても、素直に喜べないと言っていたね」
モニカは眉を下げて小さく頷く。
正直なモニカの態度に、フェリクスは少しだけ寂しげに笑った。
「そのネックレスが、まだ自分には早いと思ったら……君がお洒落上級者とやらになった時に、身につけてくれ」
モニカは黙ってネックレスを見下ろした。金色の細い鎖の先端で揺れるのは、小指の爪より少し大きいオリーブグリーンの石。僅かに金色を帯びた明るい緑色は、恐らくペリドットだ。
控えめで可愛らしいデザインは、きっとモニカの性格を考慮して選んだ物なのだろう。
それでも、アクセサリーに慣れないモニカは戸惑いながら、フェリクスを見上げた。
「あの、このお部屋のお金も、本の代金も出していただいたのに、これ以上は……」
これ以上何かをしてもらうのは、あまりにも申し訳なさすぎる。
ネックレスを外して返そうと、モニカは首の後ろの留め具に手を伸ばした。だが、この手の物に慣れていないので、外し方がよく分からない。
不器用に指を動かしていると、フェリクスがベッドから下りて、モニカの手を上から押さえた。
触れられた瞬間、モニカの体はギクリと強張る。
父の私物の医学書や人体模型を見て育ったモニカにとって、裸を見たり見られたりすることは、どうということはない。
ただ、人に触られるのは怖い。叔父の理不尽な暴力を思い出して、無意識に体が強張る。
モニカが寒さとは違う理由で体を震わせていると、フェリクスはネックレスを外そうとしていたモニカの手を下ろさせた。
そうして彼は、モニカの首を彩る金の鎖を指先でつぅっとなぞる。
「このネックレスは、君のために贈るんじゃない。僕の自己満足……僕のために、贈る物だ」
フェリクスが何を言いたいのか分からず、モニカは困惑の眼差しでフェリクスを見上げる。
フェリクスは少しだけ苦い笑みを浮かべ、ペリドットを指先で摘んで軽く引いた。細い鎖がモニカの肌にほんの少しだけ食い込む。
「形に残る贈り物──特に身につける物は、人の心を繋ぎ止めるのにいいだろう?」
物で人の心を繋ぎ止める。それは、いかにも高慢な貴族らしい言葉だ。
それなのに、どうしてこの人は、こんなにも寂しそうな顔をしているのだろう。
フェリクスの美しい指先がペリドットを持ち上げる。形の良い唇が、モニカの目によく似たオリーブグリーンに口付けを落とす。
「君だけは覚えていて。君と一緒に遊んだ『アイク』のことを」
その光景ははたから見れば、一夜を共にした男女が乱れた衣類のまま、朝の光の下で愛を誓い合っているようにも見えただろう。
だが、モニカは自分の目の前にあるフェリクスの長い睫毛を眺めながら、静かに考えていた。
──きっと、もう『アイク』と夜遊びをすることはないのだ。
だから、フェリクスはモニカに過剰なぐらいの贈り物をした。
アイクという青年との思い出を、少しでも残すために。
フェリクスがペリドットから手を離せば、美しいオリーブグリーンはモニカの青白い肌を彩った。
窓から差し込む朝日を受けて、ペリドットは草原の色に美しく輝いている。
いつもは茶色がかって見えるモニカの目も同様に、明るい場所では緑色が少しだけ濃くなった。
「ペリドットは暗い夜の僅かな灯りでも、美しく光るんだ。君が身につけてくれたら、きっとすぐに見つけられる」
いつものモニカなら、フェリクスに対して「見つけてくれなくていいです」と青ざめながら思ったりしただろう。
だが、今のモニカはアイクを無闇に否定して、傷つけることをしたくなかった。だから、モニカはぎこちなくも懸命に、言葉を選ぶ。
「……アイク」
「うん?」
「夜遊び……ビックリすることも、いっぱいあったけど…………楽しかった、です」
「……うん」
きっとこれから先も、モニカが自らペリドットのネックレスを身につけるようなことは、まずない。
それでも今だけは、ネックレスを外したらアイクが悲しむ気がして、モニカは留め具に手を伸ばすことをやめた。
モニカはのろのろと立ち上がり、ソファの上に畳んである服を手に取る。昨日買ってもらった本も、飲み物や食べ物から遠ざけて、モニカの服の上にきちんと置いてあるのが、妙に嬉しかった。
モニカが着替えていると、フェリクスがふと思い出したように、モニカの背中を見て言う。
「そういえば、昨日から気になっていたのだけど……その背中の古傷は、どうしたんだい?」
「……? 傷、残ってますか?」
「それなりに。特に肩の辺り」
ちょうど室内には大きい姿見があるので、モニカは少しだけ体を捻って自身の背中を見た。なるほど確かに、背中には引きつって皮膚が盛り上がった痕や、痣がいくつか残っている。どれも、叔父に暴力を受けた頃の名残だ。
「それは、ケルベック伯爵家で?」
フェリクスの言葉に、モニカはギョッとして首を横に振る。
確かに今のモニカは、ケルベック伯爵家の厄介者という設定だが、流石に虐待疑惑まで出てしまったら、イザベル達に申し訳がない。
「めめめ滅相も無いですっ! ケルベック伯爵家の皆様には、本当に本当に良くしていただいているんですっ! こ、この傷は、もっと前の……もので……」
「その傷を、綺麗に消したいと思ったことはない?」
「……いえ、別に」
これは心からの本心だった。
別に今更傷むほどの傷痕でもないし、背中に古傷があることで仕事に支障が出るわけでもない。
モニカは傷痕を醜いと思う感性を持ち合わせていないのだが、フェリクスにとって女性の体に傷痕があることは、看過できることではないのだろう。
ふとモニカは気がついた。フェリクスの体にも、脇腹に引きつったような傷痕がある。完璧に均整の取れた体は肌も滑らかで美しく、だからこそ脇腹の傷痕は余計に目立った。
「その、脇腹の傷……消したいん、ですか?」
モニカがおずおずと訊ねれば、フェリクスは自身の傷痕に目を落とし、緩やかに首を横に振る。
「……いいや。これは、必要な傷だからね」
その言葉が何を意味するのか、モニカには分からなかったけれど、ただ、踏み込んで訊いてはいけない気がして、モニカは黙って着替えを終わらせた。
* * *
マダム・カサンドラの館の女達は盛大にフェリクス達を送りだしてくれた。
特にドリスは、フェリクスの頬に熱烈なキスをした後で、モニカを手招きして、こう耳打ちする。
「食うに困ったら、いつでもうちにおいでよ。アタシが面倒見てあげるから」
「ど、どうも……」
「あと、旦那が弱いトコは──……だからね。しっかり覚えとくんだよ」
それは覚えておいても、役に立たない気がする。
モニカは曖昧に笑いながら、ドリスに頷き返した。
マダム・カサンドラの館を後にし、フェリクスは馬車を停めている場所へと向かう。
フェリクスはモニカも馬車に乗せてくれると言ってくれたけれど、モニカは丁重にそれを辞退した。
「昼前の集合には、間に合うかい?」
「は、はいっ、あては、ある、のでっ」
なにせリンの力を借りれば、風の魔術で余裕のひとっ飛びである。馬車よりも遥かに早く学園に戻れる。
「色々と、ありがとう、ございましたっ」
買ってもらった本を胸に抱いてモニカが頭を下げれば、フェリクスはいつも学園で見せるような、穏やかで人当たりの良い笑顔をモニカに向けた。
それは、どこか悪戯っぽいアイクの笑い方じゃない。皆から慕われる王族の笑い方。
アイクと過ごす時間は、もう終わったのだ。
ここにいる人は、この国の第二王子フェリクス・アーク・リディル。
……貴く、遠い存在だ。
「それじゃあ、また」
「はい」
フェリクスが乗り込んだ馬車が走りだす。
その車輪の音が聞こえなくなるまで、モニカはその場に残って、馬車を見送り続けた。
やがて、モニカの肩に一匹の黄色い小鳥がとまる。ルイス・ミラーの契約精霊リンだ。
「〈沈黙の魔女〉殿、第二王子の護衛、お疲れ様でした」
「は、はい……」
あれを護衛と言って良いのだろうか、とモニカはこっそり苦笑する。
だって、モニカは途中から護衛のことを忘れて、アイクに振り回され、そして、読書に夢中になってしまった。楽しんでしまった。
腕に抱いた本とペリドットのネックレスは、例え彼の気紛れだとしても、モニカにとっては、きっと忘れられない思い出だ。
モニカがそんなことを考えていると、小鳥に化けたリンがモニカの耳のそばまで移動し、耳元で囁く。
「これから、〈沈黙の魔女〉殿を学園までお連れしたいのですが、その前に……一つ、悪い報告がございます」
「……えっ?」
身をこわばらせるモニカに、リンはその知らせを告げる。
「チェス大会に侵入し、捕縛された暗殺者が…………」