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【8ー8】本の価値

 フェリクスが『ミネルヴァの泉』のバックナンバーを嬉々として漁っているのを横目に眺めつつ、モニカは店内を眺めた。

 フェリクスの衝撃の発言でちょっぴり胃が痛いが、古書店は確かにモニカの心躍る空間である。

 発行が比較的最近のいわゆる古本から、まだ印刷技術や製本技術の発達していない時代の古書と呼ばれる物まで、ありとあらゆる本がここには揃っているのだ。

 ざっと店内を見回せば、本棚に収められている本の半分ぐらいは大衆向けの娯楽小説だが、残りの半分ぐらいは実用書や学術書である。中には絶版になった稀少本もあった。

 本当は魔術に関する本も読み漁りたいところだが、さすがにフェリクスの前でそれをやったら、魔術を使えることがバレてしまう。

 それならば数学書を探そうかと、本棚を見上げながら歩いていたモニカは、とある棚の前で足を止めた。

 そこは、医学書や生物学に関する本をまとめた棚である。その棚が妙に気になったのは、見覚えのある名前を目にした気がしたからだ。

 ドクドクといつもより早く鼓動する心臓をなだめ、モニカは本棚に並ぶ文字をゆっくりと追いかける。

「………………あ」

 モニカの目は、一冊の本に釘付けになった。

 それは今から五年前に発行され──そして、発行禁止処分を受け、回収され、燃やされた本。


『遺伝形質から読み解く魔力性質 著:ヴェネディクト・レイン』


 モニカは引き寄せられるように、その本を手に取り、震える指で表紙を捲る。

 その本は、モニカが何度も耳にした一文から始まっていた。


 ──人体は、膨大な数字でできている。


 本の内容は、生物学と魔術の両方の知識がなければ理解が難しいもので、生物学を専攻していないモニカには半分ぐらいしか内容を理解できない。

 それでも表やグラフの数字を、モニカはちゃんと覚えていた。

「……18473726、385、20985.726、29405.84739、235、2108877、25……」

 異端者として処刑された父が生きた証。

 燃えていく本。灰になっていく頁の断片。

 せめて数字だけでもと、その目に焼き付けた数字が、完全な形で今ここにある。

 モニカは本を胸に抱き、ポーターの元へ駆け寄った。

「あ、あ、あのっ、これっ……この本っ、がっ、ほしいっ、ですっ! くださいっ!」

 ポーターは原稿用紙から顔を上げてモニカを見る。そして、本のタイトルに目をやり、眼鏡の奥の目を少しだけ見開いた。

「……それは、僕の友人が遺した本だ。安値を付ける気はない」

 このポーターという男が、亡き父の友人であることにモニカは驚いた。

 だが、フェリクスの前で父のことを話題にするわけにはいかない。

 モニカは動揺を押し殺し、前のめり気味に訊ねる。

「お、おいくらっ、ですかっ」

 ポーターは指を二本立てて、モニカの前に突きつけた。

 この手の専門書の相場は銀貨一枚程度。

 ポーターはその倍の、銀貨二枚を要求しているのかと思いきや……。

「金貨二枚」

 モニカは思わず息を飲んだ。

 金貨二枚は慎ましい暮らしをしている平民が、しばらく働かずに暮らしていけるだけの額だ。

 実を言うと、七賢人であるモニカは相応の収入を得ているし、王都に家を構えられる程度の貯蓄はある。ただ、買い物をする機会の少ないモニカは、普段から大金を持ち歩いたりはしない。まして、金貨二枚なんて。

「あ、あ、あのっ……必ず、いつか、払いにきます、からっ……取り置いて、もらえませんか?」

「お前みたいな子どもが金貨二枚を稼ぐのに、何年かかる?」

「……あぅっ……」

 金貨二枚は払おうと思えば、払えるのだ。

 だが、ここでそう断言してしまうと、モニカの素性がばれてしまう。

 どうにか取り置きだけでもお願いできないだろうかとモニカが必死に考えていると、いつのまにかモニカの横に立っていたフェリクスが、カウンターに金貨を二枚、コトリと乗せた。

「これで問題はないね?」

 モニカは思わず目を見開いてフェリクスを見上げる。

「あ、あああのっ、だめ、だめですっ、だって、こんな大金、立て替えてもらうわけには……っ」

「僕の夜遊びに対する口止め料だと思えばいい」

 そう言ってフェリクスは少し身を屈めて、モニカの顔を覗きこむ。

「君はアクセサリーを贈っても、喜んではくれないだろうけれど……これは、嬉しくない?」

「そ、それは……でもっ、金貨二枚なんて……っ」

「僕はその本の価値が分からないけれど、君にとっては、それだけの価値があるのだろう?」

 その言葉を言われた瞬間、モニカの目からポロリと涙がこぼれ落ちる。


 父の研究成果を、燃やされていく本を、誰もが無価値な物だと嘲笑った。

 踏みにじり、ビリビリと破き、炎の中に投げ入れた。

 モニカがその価値をどれだけ訴えても、誰も耳を貸してくれなかった……それどころか、その価値を伝えようとすることすら許されず、叔父はモニカを殴った。

 余計なことを言うなと、何回も、何回も。モニカが言葉を失うほど、執拗に。


 フェリクスはこの本の価値を知っているわけじゃない。

 それでも、モニカがこの本を大事にしていることを認めてくれた、許してくれた。それが、モニカにとってどれだけ嬉しかっただろう。

 モニカはボロボロと涙を零しながら、何度も何度も頷く。

 この本はそれだけの価値があるのだと。父が生きた証なのだと。

 フェリクスは身を屈め、モニカの目から溢れる涙を指先で拭った。

「困ったな、君を泣かせたかったわけじゃないんだ……笑っては、くれない?」

 モニカが顔をくしゃくしゃにして笑えば、フェリクスは優しく目を細める。

 ポーターが仏頂面で金貨を摘み上げた。

「金貨二枚、確かに受け取った」

 ポーターは金貨を小型金庫にしまうと、本をモニカに差し出す。

 金貨二枚の価値を得た、父の本を。

「この本はお前のものだ」

 モニカは服の袖で涙を拭い、震える手で本を受け取った。

 そうして父の本を胸に抱いて、ポーターとフェリクスに深々と頭を下げる。

「この本に……これだけの価値をつけてくださって、ありがとうございます」

「……吹っかけられた側は、詐欺だと怒るところじゃないのか?」

 呆れたように呟くポーターに、モニカはフルフルと首を横に振る。

 きっと父は、本の評価や他人がつけた価値に興味を示さなかっただろうけれど、それでもモニカは、父の本が安く売られているより、ずっとずっと嬉しかったのだ。



 本を胸に抱き、鼻を真っ赤にして泣きながら、それでも嬉しそうに微笑むモニカを、フェリクスは懐かしいものを見るような目で優しく見つめていた。



 * * *



 マダム・カサンドラの館では、今日は盛大な宴が行われている。それというのも、羽振りの良いとある客人が店に大金を寄越したからだ。

 その客人は、店で最も立派な客室に一人の娘と泊まっている。

 店の娘は寄越さなくて良いと、その客人は言ったけれど、本当に何もサービスをしないのはマダム・カサンドラの館の名折れである。

 店の売れっ子であるドリスは宴を途中で抜けると、軽いつまみや果物の盛り合わせ、それととびきり上物の酒を手に、客人の部屋をノックした。

 もし、二人がベッドで盛り上がっているのなら、一緒に混ぜてもらえばいい。あの見るからにおぼこそうな娘が上手くやれていないなら、ドリス姐さんがあれこれ手ほどきしてやろうではないか。

 そんなことを考えつつ扉を開けたドリスは、思わず目を点にした。

 客人達はこの店で最も豪華な客室のソファに座り、二人して黙々と本を読んでいる。

「ちょいと、ちょいと! 若い男女が二人して、こんな夜更けまで読書会!? 健全な男女なら、もっとヤることがあるだろう!」

「……あぁ、ドリス。飲み物ならその辺に置いておいてくれないか? 今、いいところなんだ」

 この店の常連であるその男の本名をドリスは知らない。彼は男爵と名乗っているけれど、きっとそれよりもお偉い身分なんだろうということは薄々察している。

 ドリスにとって重要なのは男の正体ではなく、ベッドでの振る舞いと、金払いの良さだ。そのどちらの意味でも、この男爵様は花丸だった。

 彼は店の娘達を見下したり、暴力を振るったりと横柄に振る舞うことはないし、ベッドの上でもスマートだ。おまけに容姿も優れているし、金払いも良いものだから、店の娘達の中には彼に本気になってしまった者も少なからずいる。

 そんな夜の遊び方を心得ているこの男爵様が! 若い娘と二人きりというシチュエーションにも関わらず、仲良く読書会!

「ちょいと、お嬢ちゃん! あんたもそれでいいのかい!? 旦那に魅力が無いって言われてるようなもんだろ!?」

「はいっ、遺伝形質は今までは液体のように混ざり合う性質のものと考えられていたんですけれど、この本では遺伝粒子という小さい粒であると提唱していてですね、この遺伝粒子は人間の設計図のようなもので、これによって魔力量や得意属性が……」

「そんな色気がない話はいいから!」

 ドリスは空のグラスに持ち込んだ酒を注ぎ、モニカにグイと押しつける。

「ほら、これ飲んで!」

「あ、はい」

 差しだされるままに、モニカはグラスを傾けた。読書に集中しすぎて喉が乾いていたらしく、モニカはコクコクと一気に半分ぐらいを飲み干す。

 男爵様のグラスにも酒を注いでやれば、彼は軽く一口舐めて目を細めた。

「あぁ、良いワインだね」

「だろう? とびきり良いやつさ。マダムが差し入れてこいって」

「うん、読書しながらのワインも悪くない」

「そのためのワインじゃないっての!」

 ドリスが怒鳴ったその時、モニカが本を閉じ、無言で立ち上がった。

 その目はどこかトロリとしていて、焦点が合っていない。

「…………モニカ?」

 男爵様が雑誌を置いて声をかければ、モニカは口をもにゅもにゅと動かす。

「……うゅ………………暑い……」

 そう言ってモニカは、身につけていた服を唐突に脱ぎ捨てる。二人が止める間もない、一瞬の出来事であった。

 彼女の奇行はそれに終わらない。ふらふらとした足取りで男爵様に近づくと、彼の手を掴んで掌をぺたぺたと触る。

「……肉球がない」

 殿方を悦ばせるなら、もっと触るところがあるだろうに。なんだって掌なのか。

 しかも謎の肉球発言。意味が分からない。

 絶句しているドリスの前で、モニカは男爵様の手を自身の頬にペタペタと押し当てた。そして、悲しそうに眉を下げて呟く。

「……肉球がないぃ…………」

 モニカは悲しそうにクスンと鼻を啜り、ふらふらとベッドに歩み寄ると、下着姿のままベッドの上で丸くなった。まるで、動物のように。

 そうして最後に「猫になりたい……」という謎の一言を残し、スースーと寝息を立てる。

 ドリスはゆっくりと首を動かして、男爵様を見た。

「……旦那、あんた猫でも拾ってきたのかい?」

「うん、あれは僕も初めて見た。正直驚いてる」

「ところで、肉球って?」

「さぁ」

 二人がベッドに目を向ければ、モニカは実に幸せそうな寝顔で、うにゃうにゃと寝言を言った。

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