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【8ー6】夢中になれるものを探して

 アクセサリーの屋台が並ぶ通りを抜ければ、賑やかな酒場が並ぶ道に出た。

 開きっぱなしの扉の向こう側には、リュートを奏でる吟遊詩人と陽気に飲んで歌う男達、そんな男達にしなだれかかって酌をする女達の姿がちらりと見える。

 それをぼんやり眺めていると、フェリクスがモニカを見た。

「お腹はへってる?」

 モニカが首を横に振れば、フェリクスは通りの先に目を向ける。

「じゃあ目的の店まで、真っ直ぐに行こう」

 フェリクスの足取りに迷いは無かった。どうやらお目当ての店があるらしい。

「……あの、これから行くのは、何を扱っているお店なんですか?」

「それは着いてからのお楽しみ。でも、きっと君も気にいると思うよ」

 お目当ての店までは、どうやら少し歩かなくてはいけないらしい。

 フェリクスのような王族の人間が、こっそり寮を抜け出して足を運ぶ店というのは、一体どんな店なのだろう。

 マダム・カサンドラの館でのフェリクスの振る舞いを見るに、彼は娼館に通い慣れているようだった。マダム・カサンドラの館以外の店でも、店の前に立つ若い娘が「男爵バロン!」と親しげに手を振っていることが、何度かあったのだ。

 男爵というのは、ここでの彼の仮の姿なのだろう。

 学園では品行方正な彼が、ここでは奔放に、楽しげに振る舞っている──それだけ王族の生活というのは窮屈なのだろう。

 ただ、それでも──どうしても、モニカには小さな違和感が拭いきれないのだ。

「……でんっ……アイク、は」

「なんだい?」

「……夜遊びするの、楽しいですか?」

「楽しそうに見えない?」

 フェリクスは黒髪のカツラに似合わない金色の睫毛を瞬かせ、小さく首を傾ける。

 モニカはほんの少しためらい、口を開いた。

「……『楽しそうに振る舞ってる』ように、見えます」

 モニカの言葉にフェリクスは一度だけ目を閉じ、開く。

 その整った顔から一瞬表情が消え、次に浮かんだ表情は……何かを諦めたような、笑みだった。

「もしかしたら、そうなのかもしれないね」

 フェリクスはモニカの言葉を遠回しに肯定し、首を傾けて空を仰ぎ見る。

 夜でも明るいこの街では、あまり星は綺麗に見えない。それでもフェリクスは少し目を細めて、星を探しているようだった。

「……昔、友人に言われたんだ」

 フェリクスは空を見上げたまま静かに呟く。


「『他の誰のためでもなく、君自身のために、夢中になれるものを見つけてほしい。君だけの好きなものを、楽しいものを、いっぱい見つけてほしい』」


 フェリクスが言葉を一つ紡ぐたびに、白い吐息が夜闇に滲む。まるで、霧のように。

「その日から、ずっと探しているんだ。夢中になれる好きなもの、楽しいものを」

「……この街に、それは、ありましたか?」

「一つだけ。それが、これから行くところさ」

 その答えが、彼が華やかな夜の街に本当は関心が無いことを示していた。

 刺激的な夜の街を堂々と闊歩し、美しい女性と過ごすひとときも、きっと彼は夢中になることはできなかったのだ。

 それでも、人々が求める娯楽らしい娯楽に一つずつ触れて、表面だけなぞって、楽しんでいるフリをして……心のどこかで「これは違う」と溜息を吐いて。

 それでも友人の願いのために、彼は「自分が好きになれるもの」を探している。

「いずれ、僕が王になったら、自由な時間は失われるだろう。そうなれば、こうやって遊び歩くこともままならない……この時間は『僕』が『僕』でいられる余生みたいなものさ」

 モニカは唇を噛みしめ、胸の奥からこみあげてくる疑問の言葉を口にするか悩んだ。

 この質問は、場合によっては不敬だと──首を切られても文句を言えない、そんな質問だ。

 それでも、モニカはどうしても訊きたかった。フェリクスの本心を。

「……自由が無くなると、分かってても……王様に、なりたいん、ですか?」

「王様になりたい? ……それは少し違うな」

 フェリクスはゆるゆると首を横に振り、モニカを見下ろした。

 整った顔から表情が抜け落ち、宝石のような碧い目が輝きを失う。


「『私』は、王にならなくてはいけないんだ」


 そうだ、王族に生まれたからには王を目指すのは当然のこと──これはきっと、モニカには一生理解できない感覚だ。

 王位継承に関する話題は、非常にデリケートだ。訊き方一つ間違えれば、お前は王に相応しくないという侮辱と受け取られかねない。

 モニカはフェリクスに深々と頭を下げる。

「あの、し、失礼なことを、訊いて……すみません、でした」

「別に構わないさ。君が僕に興味を持ってくれたのは、素直に嬉しい。なにせ、君は驚くぐらい僕に無関心だったからね」

「うぇっ!?」

 モニカは思わず、馬車に轢かれたカエルのような声を漏らした。

 フェリクスの指摘は正しい。モニカは護衛対象としてフェリクスを意識してはいるが、フェリクスという個人に興味はない。せいぜい「体が黄金比ですごいなぁ」と思っているぐらいである。

 モニカがダラダラと冷や汗を流しながら黙り込んでいると、フェリクスはモニカの顎に指を添えて、俯いている顔を上向かせた。

「申し訳ないと思っているのなら、次は君が自分のことを話す番だ」

「わ、わたしの、こと……ですか?」

「君は秘密が多い」

 モニカはギクリと顔を強張らせた。

 モニカの最大の秘密──七賢人〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレットであるという事実。

 今までなんとか隠し通せたつもりでいたが、もしかしてフェリクスはモニカの正体に勘付いているのだろうか?

「君は僕の行く先々に現れるね。鍵がないと入れない秘密の旧庭園に入りこみ、僕が寮を抜け出すところを目撃し、そして今──こうして、ここにいる」

 モニカが閉ざされた旧庭園に入れたのは、魔術を使ったから。

 フェリクスが寮を抜け出す瞬間を目撃したのは、ネロの力があったから。

 そして今、モニカがここにいるのは、リンの協力があったからだ。

 ……どれも、普通の生徒にできることじゃない。

 フェリクスは青ざめるモニカの手を取り、その手を自身の首にあてがった。さきほどモニカの手を温めた時のように。

「僕はね、君が僕を尾行していることに気づいた時……君が僕の命を狙っている刺客なんじゃないかと思っていたんだ。だけど、さっきこうして僕の首に手を当てても、君の指は僕の首を絞めたりしなかった。暗殺の機会をうかがう人間なら、少しは暗殺のチャンスと考えるものだけど」

 モニカはさぁっと青ざめた。

 あの時、フェリクスは試していたのだ。モニカの反応を。

「さっきは人の多い道だったから、何もしなかった? それなら、ここは人のいない道だ。僕を殺したければ、その手で僕の首を絞めるなり、かき切るなりすればいい」

「わ、わたしは、そんなこと……っ」

 モニカが咄嗟に否定すれば、フェリクスは「うん、違うのは分かってる」とあっさり頷いてみせた。

 拍子抜けするモニカに、フェリクスはさらりと言う。

「君は暗殺者なんかじゃない。殺すなら、もうとっくにやっているだろうしね」

「…………」

「君の目的がなんであれ、誰かに雇われたにしては、あまりに挙動不審すぎる。敵とは思えないけど、味方にしてはあまりに頼りない。だから、君のことは面白いペットだと思うことにしていたんだ」

「ぺ、ペット!? ……ペット……!?」

 モニカがガーンとうちひしがれていると、フェリクスはクスクスと悪戯っぽく笑った。

「今は、同じ秘密を共有する夜遊び仲間だ」

「……ペットって……ペットって……」

「子リス呼びはもうやめただろう?」

 そう言ってフェリクスは人差し指を伸ばし、モニカの額にヒタリと押し当てる。

「ねぇ、気付いているかい? 君は僕に取引を持ちかけることだってできたんだ。夜遊びしていることをバラされたくなければ、言うことをきけ、って」

「……それは、その…………でん、んんっ、アイクに望むことは……特にないので」

 以前フェリクスにチェスの勝負を持ちかけられた時、子リス呼びをやめてほしいと望んだけれど。

 名前で呼ばれることを諦めて受け入れてしまえば、もうこれ以上、モニカがフェリクスに望むことなど何もないのだ。

「……わたしは、貴方から貰いたい物も、してほしいことも、何もないんです……本当に、何も」

「あぁ、それはこの数ヶ月、一緒に過ごしていてよく分かったよ。君は僕に、何も期待なんてしていない」

 フェリクスはモニカに背を向け、数歩先を歩く。そうして、モニカの方を振り向かぬまま、ポツリと言った。

「それが気楽でもあり、少し寂しくもあるかな」

 フェリクスはゆっくり歩き出す。モニカは早足で、その後を追う。

 ただ、フェリクスの横に並ぶのが申し訳ない気がして、彼の斜め後ろを俯きながら歩いていると、フェリクスはモニカの指に自身の指を絡めて、歩きだした。

 困惑するモニカに、フェリクスは言う。

「さっきも言っただろう? 僕は僕が好きだと思ったり、楽しいと感じることを探しているんだ。君で遊ぶのは楽しいから、君が何者かは詮索しないでおいてあげる。だから、もっと僕に構っておくれ?」

「わ……わたしで、遊ぶ……」

「おっと訂正。君と遊ぶのは楽しい」

「今『君で遊ぶ』って……『君で』ってぇ……」

 フェリクスはあうあうと呻いているモニカの手を引くと、前方に目を向け、殊更明るい声を出す。

「ほら、目的の店が見えてきた」

 誤魔化されていると知りつつ、つられて顔を上げれば、そこには古びた煉瓦造りの家があった。

 扉には小さなランプと木のプレートがぶら下がっており、ランプのオレンジ色の明かりがプレートの文字を照らしている。

 飾り気の無いプレートには無骨な文字で『ポーター古書店』と刻まれていた。

「さぁ、モニカ。君に教えてあげよう。この店が、僕のとっておきのお気に入りだ」


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