【7-12】わたしの友達
昼食会の会場を飛び出したモニカは、二階と一階を繋ぐ階段を駆け下りたところで足を止めた。
なにぶん運動不足なので、ほんの少し走っただけで息切れが酷い。モニカは壁に背を預けて、荒くなった呼吸を整える。
(…………ビックリしたぁ)
婚約を申し込まれたのは、言うまでもなく初めてである。
ロベルトはモニカの容姿や性格に惹かれた訳ではない。ただ、モニカのチェスの腕を見込んで、その上で、もっとチェスをする機会を増やす為に婚約を申し込んだだけだ。
それは大抵の人間なら「けしからん」と眉をひそめそうな話である。だが、モニカは合理的だと感心すらしていた。
恋をしただの、愛してるだのと言われても、恋愛に疎いモニカにはどうしたってピンとこない。
容姿は人並み以下、社交性もない、気の利いたことも言えない、そんな自分に恋をしていると言われるより、チェスがしたいから婚約してくれと馬鹿正直に言ってくれた方が、分かりやすくていい。
……だからといって、婚約を受けるつもりは、これっぽっちも無いけれど。
(困ったなぁ……)
今から会場に戻っても悪目立ちするのは目に見えている。
次のミネルヴァとの試合まで、どこかに隠れていようか……そんなことを考えていると、前方に何か揺らめくものが見えた。
「………………え」
それは、炎の矢だった。それが五本。モニカの前方に浮かび上がっている。
モニカが声を漏らした瞬間、炎の矢は真っ直ぐにモニカに向かって飛来した。普通の人間なら回避不能の攻撃だ。
だが、モニカは咄嗟に無詠唱で結界を張り、炎の矢を防ぐ。
「やっぱり、貴女だったんですね…………モニカ」
階段の上から響く声に、モニカの背すじが凍った。
ゆっくりと顔を上げて階段を見上げれば、踊り場に立つバーニーの姿が見える。
踊り場の硝子窓から差し込む光で、バーニーの顔は逆光になっていた。それでも、その口元に酷薄な笑みが浮かんでいるのだけは、ハッキリと見える。
バーニーはゆっくりと階段を下りて、モニカの前に立った。モニカは立ち竦んだまま、一歩も動けない。
そんなモニカを、バーニーは嘲笑った。
「なぜ、七賢人様がこんなところで学生ごっこなんてしているんです? 山小屋に引きこもっているという噂は嘘だったんですか?」
「…………ぁ、ぅ……」
モニカは必死で口をハクハクと動かす。だが、うまく言葉が出てこない。目の前がぐらぐらする。
「あぁ、もしかして正体を隠して、学生生活のやり直しを? 名門中の名門であるセレンディア学園で学生ごっこだなんて、贅沢なお遊びですね? おまけに男を複数はべらせて恋愛ごっこだなんて……ははっ、随分と満喫しているようで」
男を侍らせる、という言葉にモニカは唖然とした。
もしかして、もしかしなくても……これはあれだ。
(ネロとリンさんのことだーーーーーー!)
使い魔と精霊の全力の悪ふざけを、バーニーは真に受けてしまったらしい。
だが、正直に全てを話すことはできない。第二王子護衛任務は極秘任務なのだ。
モニカが俯いていると、バーニーはモニカに手を伸ばし、モニカの髪に結われたリボンを摘みあげた。
「随分と雰囲気が変わりましたね? 名前を聞くまでは貴女かもしれないなんて、これっぽっちも思わなかった……随分と色気づいたじゃありませんか。まともに人と会話もできない癖に。一丁前にお洒落?」
「……ぅ……ぁ」
「良かったですね? 隣国の人間にプロポーズまでされて」
「……っ…………」
バーニーの言葉の一つ一つが、モニカの胸を抉る。
モニカが傷ついた顔をすればするほど、バーニーの笑みは深くなった。
「あぁ、分かった。第二王子に取り入るために、無力な学生のフリをして近づいたんでしょう? 貴女がやりそうなことだ……無力なフリをして、誰かにすり寄って……そうして、甘い蜜を吸うんでしょう? 寄生虫みたいに!」
叩きつけられる激しい侮辱の言葉に、モニカは呆然とした。
(……わたしは、バーニーに、そういう風に思われてたの?)
また、昔みたいに話せたら……そんな一欠片の甘い希望を、バーニーは嘲笑と共に踏みにじる。
モニカ・エヴァレットはバーニーに憎まれていた。疎まれていた。侮蔑されていた──それが、現実だ。
モニカの目蓋の奥がじわじわと熱くなる。
(泣いちゃ、ダメ)
歯を食いしばって、モニカは必死で嗚咽を噛み殺した。それでも鼻の奥がツンとする。足元から崩れ落ちるような絶望に、みっともなく泣き崩れてしまいたい。
「貴女みたいなずるい人なんて、すぐに誰からも見向きもされなくなるに決まってる!」
(知ってるよ、バーニー。わたしなんて、誰からも、見向きもされないって)
それでも幼い日のモニカは、バーニーが手を差し伸べてくれたことが嬉しかったのだ。
だから、彼の誇れる「友達」でいたかった……それだけなのに。
(わたしなんかが、友達になりたいなんて、身の程知らずだったんだ)
「ちょっと待ちなさい!!」
勇ましい少女の声が、廊下に響く。
ハッと顔をあげれば、誰かがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。スカートの裾を大きく翻して走る少女は──ラナ・コレット。
ラナはモニカとバーニーの間に割って入ると、ギラリと鋭い目でバーニーを睨んだ。
「会話は聞こえなかったけど、これって、どういう状況よ? 貴方、ミネルヴァの人よね?」
「あぁ、失礼。この学園の生徒さんですか?」
「どういう状況って訊いていますのよ、ミスター? お答えくださらない? ……それとも、ミネルヴァでは廊下に女の子を追い詰めて泣かせるのが礼儀なのかしら?」
ラナが細い顎をツンと持ち上げてバーニーを睨めば、バーニーは薄っぺらい笑みを貼りつけて肩を竦めた。
「名乗りもせずに失礼しました。ミネルヴァ代表のバーニー・ジョーンズと申します。モニカとは古い知り合いでして。昔話に花を咲かせていたら、彼女、懐かしさのあまり、感極まって涙ぐんでしまって」
スラスラと言葉を並べ立てるバーニーを、ラナは胡散臭いものを見るように睨む。
「……ふぅん、貴方が……モニカが会いたくなかった人ってわけね」
ラナはボソリとそう呟いて、泣き出す寸前のモニカを見る。
「化粧、直してあげるわ。化粧部屋に行きましょ」
「……う、ん」
モニカが頷くと、ラナはバーニーに品の良い淑女の笑みを向けた。
「ごめんなさいね、ジョーンズ様。わたし、友達の化粧を直したいので、これで失礼いたしますわ」
「…………友達?」
ラナの言葉に、バーニーがぴくりと細い眉を跳ね上げ、口元にいびつな笑みを浮かべた。
「その人と友達になるの、やめた方がいいですよ。きっと不快な思いをするに決まってる。彼女は自分じゃ何もできないフリをして、他人を利用しているんです」
バーニーの言葉に、モニカは鞭で打たれたかのように体を震わせる。
そして、ラナは……
「は、ぁ、あ?」
淑女の笑みを引きつらせ、額に青筋を浮かべていた。
「モニカは、そういうことをする性格じゃありませんのよ」
「猫を被ってるんですよ。無力なフリをして、影では他人を馬鹿にしてるんです」
ラナの目が冷ややかにバーニーを見る。
「貴方って、人を見る目が無いのね。その、センスの欠片もない、だっっっさい眼鏡を作り直したらいかが?」
今度はバーニーの顔が引きつった。
ラナもバーニーも社交的な笑みを浮かべているが、目が笑っていないし、眉がピクピクと痙攣している。
一触即発の空気を先に破ったのは、バーニーだった。
「きっと後悔しますよ。さっきのチェスの試合を見たでしょう? 彼女は本当は誰よりも頭がいいし、才能がある。そのくせ、自分は無力だから何もできませんという顔をして、正体を隠して他人に寄生してるんです」
正体を隠して……その一言に、モニカはヒッと息を飲む。
バーニーの言う通りだ。だって、モニカは七賢人である己の正体を偽っている。ラナに、嘘をついている。
モニカが立ちすくむと、ラナはモニカの手をギュッと握りしめた。
そして、モニカではなくバーニーに辛辣な目を向ける。
「ねぇ、そろそろ正直に言ったらいかが? ……貴方、モニカに嫉妬してるんでしょ」
ラナの指摘に、バーニーの動きが一瞬止まる。
バーニーの笑みはどんどん崩れていった。そして、剥がれ落ちた笑顔の仮面の下、露わになるのは……怒りと憎悪。
「貴女もいつか、きっと思い知りますよ。自分と彼女の実力差を見せつけられたら、否が応でも」
「わたしは自分の友達が優秀だったら、お父様に自慢するわ! わたしの友達ってすごいのよ、自慢の友達なのよ、って! 貴方って心が狭いのね!」
「あぁ、学力のない凡人は、天才との差が開き過ぎると、悔しいという感情すら湧かないですものね!」
バーニーがラナを嘲笑った瞬間、モニカは考えるより先に口を開いていた。
「バーニー!!」
滅多にないモニカの大声に、ラナとバーニーは驚いた顔でモニカを見る。
モニカは思考のまとまらぬまま、それでも必死で声を絞り出した。
「わたしの友達を、悪く言うなら…………わたし、バーニーのこと、許せなくなる」
モニカの言葉に、バーニーは鼻白んだような顔をしていた。
「貴女が許さないからなんだと言うんです? ボクが今更、貴女なんかの言葉で傷つくとでも?」
告げる言葉は毒にまみれているが、先ほどまでの勢いはない。
きっと驚いているのだ。
だって、モニカは一度だってバーニーに歯向かったことがなかったから。
モニカはゆっくりと呼吸を整え、ずっと言えなかった言葉を口にする。
「……わた、しは、いつもバーニーに頼りっぱなしだったから、バーニーに頼ってもらえるような、すごい人に、なりたかった……」
いつも、モニカはバーニーに手を引いてもらっていたから。
だから、いつか対等に肩を並べて笑い合えるような、そんな友達になりたかった。
「……バーニーに、自慢の友達って、言ってもらいたかった……ただそれだけ、なの。すごいね、頑張ったねって、他の誰かじゃなくて、バーニーに言われたくって……」
だけど、それは叶わぬ夢だった。
きっと、そんなことを望むこと自体間違っていたのだ。
「……でも、もう、バーニーに褒めてもらうの、諦める。二度と、バーニーに何も望まない」
モニカは全てを断絶するように、白い目蓋を閉ざす。そして、次に目蓋を持ち上げた時、その目はもう、かつて親友だと信じていた少年を映してはいなかった。
モニカがバーニーに背を向ければ、バーニーがモニカに手を伸ばし、何かを言いかける。
その手をラナが容赦なく叩き落とした。
「未練たらたらの男って、かっこ悪いわよ?」
ラナはそう言い捨てて、モニカの腕に自分の腕を絡める。
バーニーは何も言わず、ただその場に立ち尽くしていた。
二人で並んで少し歩いたところで、ラナは満足そうに鼻を鳴らす。
「自分の考え、ちゃんと言えてたじゃない」
ニィッと笑うラナに、モニカははにかみながら小さく頷く。
「今日のわたし……ちょっとだけ、強いの」
モニカは自分の制服を見下ろし、唇の端をキュッと持ち上げて笑う。
「コルセットしてるから、背すじがピンとしてるし、お化粧してるから、泣きそうになった時、泣いたらお化粧落ちちゃうって泣くの我慢できた……ラナの、おかげ」
「また、とびきり可愛くしてあげるわよ」
モニカがコクコク頷けば、ラナは上機嫌に笑ってモニカの腕にギュッと抱きついた。
* * *
モニカの宣言を聞いた瞬間、バーニー・ジョーンズの思考にヒビが入った。
二年前、モニカに絶縁を突きつけて、バーニーは心から安堵したつもりだった。
それでも、彼はいつだって〈沈黙の魔女〉の動向を気にしていたし、彼女が発表する論文の全てに目を通していた。
七賢人〈沈黙の魔女〉が称賛される度に、バーニーは心のどこかで考えていた。
──そんな彼女を、かつて世話してやったのは自分なのだと。
──そんな彼女を傷つけて、踏みにじってやったのは、自分なのだと。
七賢人にまで選ばれた天才少女が、泣きじゃくりながら自分に許しを乞う姿に、彼は暗い愉悦を抱いていた。
だが、もうモニカはバーニーに何も望まない。期待もしない。
モニカはそう宣言して、バーニーに背を向けた。
遠ざかっていく背中は二年前とは逆の光景だ。
あの時は、バーニーがモニカを置き去りにしたのに。今はバーニーが置き去りにされている。
(違う、違う、違う)
モニカはバーニーを意識していなくてはいけないのだ。
もっともっともっと、バーニーのことを気にして、意識して、怯えていればいい。
「……こんなの、認めない」
バーニーは早足で廊下を歩き、ミネルヴァの担当教諭ピットマンの姿を探す。
ピットマンは「華やかな場は苦手なんですよぉ」と言って、食事会の会場には顔を出していない。控え室に足を向ければ、案の定一人で本を読んでいた。
「ピットマン先生」
控え室に入るなり詰め寄るバーニーに、ピットマンは本から顔を上げて目を丸くする。
「おや、どうしたんですか、そんな怖い顔をして」
「次の試合、ボクを先鋒にしてください」
「えぇっ!? ちょっ、直前で変更だなんて……そんなことしたら、怒られちゃいますよ!?」
「顧問教師と、会場校の教師のサインがあれば、可能な筈です」
そう言ってバーニーは、あわあわしているピットマンを引きずり、職員室に向かう。
本来ならセレンディア学園のボイド教諭にサインを貰うのが筋だが、そのためには食事会の会場に戻らねばならなくなる。会場には他のミネルヴァの生徒もいるのだ。彼らをいちいち説得する時間が惜しい。
(セレンディア学園の教師のサインなら、誰でも良かったはず)
職員室の扉を開ければ、一人の老教授が座って待機していた。あの顔は見覚えがある。数年前までミネルヴァの実技教師をしていたマクレガン教諭だ。
しめた、とバーニーは唇の端を持ち上げて笑う。マクレガン教諭は目が悪いのだ。
「マクレガン先生、この書類にサインをお願いできますか?」
「……うん? チミ達、だぁれ?」
「チェス大会の参加者です。会場のことで、急ぎ教諭のサインが必要で」
バーニーは適当な嘘を並べ立て、マクレガン教諭に書類を差し出す。
半ば引きずられてきたピットマンが「こちらのご老人は知り合いかい?」と目を白黒させていたが、バーニーは無視をした。
「サインね、はいはい、これでいい? 枠からはみ出してない?」
「えぇ、バッチリですよ。では、この書類はボクの方からボイド教諭に提出しておきますので」
「うん、そう、ボイド君にヨロシク」
まんまとマクレガンのサインを手に入れたバーニーは、ほくそ笑んだ。
これで、次の試合は自分が先鋒になれる──モニカと戦える。
(ボクから目を逸らすなんて、許さない)
モニカ・エヴァレットは過去も未来も永久に、バーニー・ジョーンズに怯えて、縮こまっていなければいけないのだ。