【7-11】前提がチェス
第一試合の後は、生徒会主催で交流会を兼ねた簡単な立食パーティが行われる。
参加するのは各校の代表者と、教師、それと生徒会役員だけだ。観戦に来ていた生徒達は寮に戻って昼食をする。
モニカは目立たないように会場の隅に立ち、ちらちらと周囲を見回した。バーニーは同じミネルヴァの生徒と談笑しつつ食事をしている。モニカに近づいてくる様子はないが、油断は禁物だ。なるべく距離を置かなくては。
モニカがそんなことを考えていると、軽食を乗せた皿を持ってエリオットとベンジャミンが近づいてきた。
「やぁ、君の試合の棋譜を見てきたぞ、ノートン嬢」
エリオットはどこか恨めしげである。
なにせ「院」との試合に勝利したのはモニカだけで、エリオットとベンジャミンは敗戦なのだ。自分だけ勝ってしまって、不快にさせてしまったのだろうか……とモニカがビクビクしていると、エリオットは至近距離でモニカの顔を覗き込み、人差し指でモニカの眉間をグリグリと突いた。
「散々練習に付き合ってやったのに……オレ相手には手を抜いてたな?」
「い、いいいいえ、そ、そんな、ことは、全然、これっぽっちも!」
「この棋譜を見たら、練習では手を抜かれてたって誰でも思うぞ。なんだこの対局……定跡破りの新しい手はバンバン使うわ、それを間一髪で切り抜けて逆転に繋げるわ、もうチェス界の歴史に残る一局じゃないか」
「そそそそ、そんな、おそおそおそ恐れ、多い……」
眉間をグリグリされながら必死で言い訳をすれば、ベンジャミンが「あまり後輩を苛めるものではないぞ」とエリオットを嗜めた。
「協奏曲はどちらかが突出していても成立しない……二者の実力が拮抗していてこそ更なる高みへ至り、美しき調べが生まれるのだよ。この試合、相手は非常に強敵だった。だからこそ、ノートン嬢は己の実力を遺憾なく発揮できたのだろう……つまりはノートン嬢が今まで真の実力を発揮できずにいたのは、我々の力不足だ。あまり僻むものではない……おぉ、できることなら、この美しき調べが生まれる瞬間を、棋譜ではなく、この目で! 見たかった! 神よ! 何故、私は代表選手に選ばれてしまったのですか! 観客で見ていたかった!」
ベンジャミンの言葉は大袈裟だが、的をいていた。
対戦相手のロベルト・ヴィンケルは、今までモニカが戦ってきた中で最も強敵で、だからこそモニカは新しい手を模索することができたのだ。
楽しいチェスだったなぁ、とぼんやり余韻に浸っていると、誰かがこちらに近づいてくるのが見えた。
年下とは思えない大柄で引き締まった体躯に短い黒髪、キリリとした精悍な顔立ち──まさに今話題に上がっていた、モニカの対戦相手ロベルト・ヴィンケルである。
「モニカ・ノートン嬢」
名を呼ばれたモニカはビクリと肩を震わせ、無意識にエリオットとベンジャミンの影に隠れた。
モニカは極度の人見知りだが、中でもロベルトのように大柄な男が一番怖い。かつて自分を殴った叔父が大柄だったので、どうしてもあの恐怖が頭をちらつくのだ。
実を言うと、人型になったネロも大柄な男性なので、モニカは苦手意識がある。
モニカがビクビクしていると、ロベルトは軍人のような立ち姿勢で口を開いた。
「先ほどの試合、自分は感服いたしました」
「ど、ど、どう、も……」
「つきましてはっ!」
ロベルトはカッと目を開き、ビクビク震えているモニカを見据えて言った。
「自分と、チェスを前提に婚約していただきたいっ!」
腹の底からよく響く声であった。それはもう、会場中に響くほどに。
シリルが飲み物を噴きだし、ニールが「こ、婚約ぅっ!?」とひっくり返ったような声をあげ、ブリジットが空気を読めない馬鹿を見るような冷ややかな目を向けた。
フェリクスはいつもの穏やかな笑顔のまま──ただ、心無しか不穏な空気を漂わせて、モニカ達を見ている。
一番そばにいたエリオットは、目と口を開けて絶句していた。大抵の人間がそうであるように、モニカもまた、ポカンとする。
そんな微妙な空気の中、口を開いたのはベンジャミンであった。
「嘆かわしい!」
ベンジャミンは亜麻色の髪を振り乱し、天を仰ぐ。
「恋愛というものは、もっと情熱的に情緒を揺さぶる調べであるべきだろう! 美しくない! そのプロポーズは音楽的に美しくない! 駄作にも程がある!」
ベンジャミンは全身をつかって嘆かわしさを表現し、恋愛とはかくあるべきという自論を語りだす。
いよいよ収拾がつかなくなりかけたその場をとりなしたのは、苦労人のまとめ役エリオットであった。
「あー、そのだな。音楽云々はさておき、今のは……どういうプロポーズだ? 結婚を前提にならともかく、チェスを前提に婚約なんて聞いたこともない」
「言葉が足りず失礼しました! 今から自分の考えを説明させていただくので、ノートン嬢には是非とも前向きな検討をお願いしたい次第でありますっ!」
ロベルトは直立姿勢のまま、馬鹿がつくほど真面目な態度で、ハキハキと語り始めた。
「自分はノートン嬢のチェスに心を打たれました。同年代の人間で自分を圧倒したのは彼女が初めてです。できることなら、彼女ともっとチェスがしたい……ですが、我々は違う学校の人間であり接点が何もない。しかし! 婚約者になれば、週末や長期休暇に会う理由ができます! そこで存分にチェスをすることができるっ! だから、自分と婚約していただきたいのです、ノートン嬢!」
なるほど「チェスを前提に婚約」という言葉に偽りなしの、馬鹿正直な説明であった。
「すごいな……清々しいほど我が儘だぞ、こいつ……」
「……音楽的じゃない……おぉ、美しくない……」
エリオットとベンジャミンが顔を引きつらせていても、ロベルトはお構いなしに言葉を続ける。
「自分はランドール王国の男爵家の五男です。爵位を継ぐことはありませんが、ゆくゆくはランドール騎士団に所属する予定です。チェスの腕に優れた者は、騎士団の指揮官候補になれる。将来はそこそこ安泰であると自負しておりますっ! 実家の男爵家は借金はありません! 両親共に堅実です! 兄達との仲も良好! 犬も三匹います! どうぞ安心して嫁いでいただきたい!」
話が飛躍しているにも程がある。
(と、とと、とにかく、断らなきゃ……っ)
そもそもモニカ・ノートンとは仮の姿。
その正体は、第二王子の護衛として潜入している七賢人の一人なのである。婚約なんてできるはずがない。
「あ、あの、む、無理、です、ごめん、なさいっ」
「何故ですか。もしや既に婚約者がいるとか?」
「い、いえ、い、いない、です、けど……っ」
馬鹿正直だなぁ、とエリオットが呆れの目でモニカを見た。
だが、こういうところで適当な嘘がつけるほど、モニカは器用じゃないのだ。
モニカがもじもじしていると、ロベルトは更に言い募る。
「他国に嫁ぐことが不安なら、ご安心ください。生活習慣、言語、社交界、あらゆる面において、自分が全力でサポートします。貴女は安心してチェスに専念していただきたい」
「いえ、あの、だから、その………………っ、ご、ご、ごめっ、ごめんなさいっ!」
モニカは居た堪れなくなり、エリオットの背中から飛び出し、一目散に廊下に向かって走った。ボテボテという情けない走り方ではあるが、モニカなりの全力疾走である。
「ノートン嬢! 話はまだ……っ!」
モニカの後を追おうとしたロベルトの肩に、ポンと手が置かれた。
右肩に手を置いているのはフェリクス、左肩に手を置いているのはシリルである。
傍目には、ちょっと肩を叩いているようにしか見えないが、よくよく見れば服に皺が寄るぐらい強い圧力がかかっていた。
「失礼、あの子は我が生徒会の人間なんだ。まずは私に話を通してもらえないかい?」
「交流の場で、非常識な振る舞い。生徒会役員として看過できん」
フェリクスは笑顔だが、目が笑っていなかった。
シリルにいたっては、冷ややかな無表情で冷気を撒き散らしている。
修羅場の予感に、エリオットは顔を引きつらせた。