【7ー9】ノンフラグ・トライアングル・リターンズ 〜三角関係の様式美〜
セレディア学園を訪れたのは「ミネルヴァ」「院」共に、三名の男子生徒と引率の教師の計四名ずつ。
院の生徒は三人とも髪を短く切り揃え、院の厳しい学風をそのまま体現したような生真面目そうな面持ちの男子生徒達だった。引率の教師は四十代半ばぐらいだろうか。黒髪を短く刈り込んだ、鋭い目つきの男である。
ミネルヴァの生徒は、大将のバーニー・ジョーンズを始め、全員がいかにも学者肌という雰囲気の男子生徒であった。引率の教師は、どことなく頼りなさげな風貌の若い男性教師だ。
バーニー以外の生徒も引率の教師も、モニカは面識が無い。教師の方は恐らく、モニカが卒業した後に赴任した教師なのだろう。
となると、この場で〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレットのことを知るのは、ただ一人。
「バーニー・ジョーンズです。よろしく」
「……モニカ・ノートンです」
三校の選手は、顔合わせの際に一人ずつ交代で挨拶を交わす。
モニカはずっとバーニーの様子を気にしていたが、特にこれといってバーニーの態度に変わりは無かった。
きっと、モニカのことに気づいていないのだろう。ラナの化粧のおかげだ。
(……あとは、姿勢と表情。姿勢と表情)
流石に他の皆のように、自然な笑顔を浮かべるのは難しいが、それでも、ビクビクオドオドとした態度だけはとらないよう、モニカは唇をキュッと引き締め、背筋を伸ばした。
コルセットのおかげで、いつもよりピンと背すじが伸びて、背が伸びたような気がする。
いつもとは別人の気分、なんて言ったら大袈裟だが、それでも、ラナが施してくれた化粧はモニカにほんの少しだけ勇気を与えてくれた。
(大丈夫、大丈夫、気づかれてない、気づかれてない)
モニカが必死に自分にそう言い聞かせていると、院の教師ダン・レディングが、セレンディア学園の面々を見て、口を開く。
「……今年は、去年とは違うメンバーなのですね」
強面とは裏腹に丁寧な口調でレディングがそう言えば、セレンディア学園側のボイド教師が傭兵のような顔で重々しく頷いた。
「我が校は、毎年、選手を入れ替える」
「去年のセレンディア学園は、とてもお強かった。また同じ生徒とあいまみえることになるのかと、楽しみにしていたのですが……貴方もそう思いませんか、ピットマン殿?」
ピットマンと呼ばれたミネルヴァの教師は、少しぼんやりとしているようだった。
レディングが「ピットマン殿?」と繰り返し声をかけると、ハッと顔をあげてへらりと笑う。
「あぁ、はい、そうですね。えぇ」
見るからに堅物そうな「院」のレディングと、どこかぼんやりしている「ミネルヴァ」のピットマン。
二人の教師が昨年度のセレンディア学園を称賛すれば、セレンディア学園代表のボイドは、地の底から響くような低い声で短く宣言する。
「今年も強い」
ボイドは口数の多い教師ではないが、その短い一言はいつだって重く響く。
レディングはほんの少しだけ顔を強張らせた。ピットマンの方はやはりヘラヘラとしたままだが。
「……えぇ、今年も楽しみですよ」
「いやぁ、お手柔らかにお願いしますねぇ」
試合はまだ始まっていないのに、生徒より先に教師陣が火花を散らしている。
チェス大会は三校の交流会、という名目ではあるが、三大名門校の頂点を競う場の一つでもある。
以前は「院」が連勝記録を打ち立てていたのだが、昨年はセレンディア学園が圧倒的な勝利を収めたので、特に「院」側はピリピリしているのだろう。
レディングはモニカをちらりと見て、僅かに目を細める。
「今年もセレンディア学園は、代表に女子生徒がいるのですね。えぇ、去年のアシュリー嬢は大変お強かった。ノートン嬢と言ったかな。その腕前に期待しても?」
俄かに注目され、モニカはビクリと肩を震わせた。
チェスの競技者は圧倒的に女性が少ない。まして、代表選手ともなれば尚のこと。女子生徒というだけで、モニカはそれなりに周囲からの注目を集めているらしかった。
モニカが体の前で両手を握りしめて硬直していると、ボイドは大きい手で、モニカの肩をポンと叩く。
「期待の新人だ」
「それは楽しみですね。えぇ、とても」
ボイドとレディングの間に火花が散るのが見えた気がした。モニカは姿勢と表情を保ちながら、頭の中でひたすら円周率を計算する。
「やっぱり注目されてるなぁ、ノートン嬢」
場の空気を和ませようと思ったのか、エリオットがモニカに軽口を叩いた。
だが、モニカはエリオットの軽口に乗るどころではない。
「おーい、ノートン嬢? おーい」
エリオットがモニカの前でヒラヒラと手を振るが、当然モニカの耳にはエリオットの声など届いていない。
「2847564823378678316527120190914564856692……」
「……あ、ダメだこれ。帳簿の時みたいになってる」
背すじを伸ばしたまま強張った顔で、ひたすら円周率を口にするモニカに、エリオットが額に手を当てる。
周囲がモニカを奇異の目で見始めたその時、声を張り上げたのはセレンディア学園中堅、ベンジャミン・モールディングであった。
「心配はご無用! 我がセレンディア学園が奏でるグラツィオーソ(優美)な三重奏は必ずや衆目の心を鷲掴むことでしょう! 超絶技巧のピアノがノートン嬢、軽やかなバイオリンの調べがエリオットなら、私は聴く者の心を揺さぶる変幻自在のチェロ奏者! あぁ、聴こえる、聴こえるぞ……我らの音楽的なチェスに魂を揺さぶられた観衆の心の叫びが!」
数字の世界にトリップしているモニカと、音楽の世界にトリップしているベンジャミン。
二人に挟まれたエリオットは、試合が始まる前から疲労の色の濃い顔で、ボイドを見上げた。
「……ボイド先生が俺を大将にした理由が、ようやく分かったぜ」
つまりは、まとめ役という名の貧乏くじである。
* * *
モニカが円周率を計算している間に、各校の大将達は抽選を行い、試合の組み合わせが決定した。
午前中に第一試合「セレンディア学園」対「院」
昼食会を挟んで、第二試合「ミネルヴァ」対「セレンディア学園」
更に少し休憩を挟んで第三試合「院」対「ミネルヴァ」
バーニーのいるミネルヴァと当たるのは、昼食会の後の第二試合である。
それでも、バーニーはミネルヴァの大将だから、先鋒のモニカと当たることは無いはずだ。
開会の挨拶が終わった後、休憩を挟んで第一試合が始まる。
試合が始まる前にモニカは控え室を出て、鏡のある化粧部屋へ向かった。ラナに結ってもらった髪が崩れていないか、少しだけ不安だったのだ。
セレンディア学園は貴族の令嬢が多いだけあって、化粧部屋が随所に設置されている。
モニカは一番近くの化粧部屋に駆け込み、髪と化粧が崩れていないのを確認すると、鏡に映る自分を真っすぐに見つめた。
鏡の中には、健康的な顔色の十七歳の少女が映っている。
かつて暮らしていた山小屋にも、一応鏡はあったのだ。モニカの身なりを見かねたルイス・ミラーが「少しは身嗜みにも気をつかいなさい」とわざわざ運び込んでくれたのである。
けれど、モニカはその鏡を殆ど使うことがなかった。身嗜みなんて興味がなかったから。人前に出る時は、フードを被れば良いと思っていたから。
(……でも、今なら、ルイスさんが身嗜みに気を遣えって言った理由が、分かる気がする)
社交界の場で、容姿は一つの武器だ。それはフェリクスやブリジットなどを見ていると、よく分かる。
そして、身嗜みを整えることは、武装することと同じなのだ。
そう考えると、コルセットがなんだか鎧のように思えてきた。最初は窮屈で嫌だと思っていたけれど、今はなんだか心強い。
モニカは鏡の中の自分に向かって呟いた。
「……が、がんばる、ぞー」
決意を声に出すのは少し気恥ずかしくあったけれど、それでも、勇気が出る気がする。
モニカは一度頷いて、化粧部屋を後にした。第一試合開始まで、まだ少し余裕はあるけれど、早めに戻るに越したことはないだろう。
早足で廊下を進むと、前方の廊下の角を曲がる人影が見えた。
その姿を目にした瞬間、モニカの足が竦む。
「失礼、モニカ・ノートン嬢」
少し癖のある金髪、懐かしい眼鏡。きっちりと着こなしたミネルヴァの制服。
モニカを呼び止めたのは、かつての友人、バーニー・ジョーンズだった。
モニカはコクリと生唾を飲む。
ここはなんと返すのが正解だろうか? 下手に喋ったら、ボロが出る気がする。
急いでいますので、と言って横を通り過ぎるのが、きっと正解だ。
それなのに、久しぶりにバーニーに話しかけられたモニカは懐かしさと切なさで胸がいっぱいになって、足が止まってしまった。
あんなに酷く突き放されたのに、モニカはまだ、バーニーに話しかけられたことを喜んでいる。
「少し、お話をよろしいですか?」
モニカは口を噤んだまま、コクリと小さく頷く。
大丈夫だ、きっとまだ、バレていない……そう自分に言い聞かせて。
「貴女とお会いした時、驚きました。昔の知り合いに似ていたもので。偶然なんですけどね、名前まで同じなんです」
昔の知り合い──あぁ、やっぱり、もう友人とは言ってくれないのだ、とモニカは密かに落胆した。
落胆している自分に驚いた。
やっぱり、自分はまだバーニーと友人でいたいと望んでいたのだ。あんなに嫌われてしまったのに。
「ところで、ノートン嬢。貴女は以前からセレンディア学園に通っていたのですか?」
「…………」
ここで頷いても、すぐに嘘だとばれるだろう。だが、首を横に振れば、バーニーの疑惑をより確固たるものにしてしまうかもしれない。
答えるべきか否か、モニカは判断に迷う。
その判断の迷いが致命的だった。
「答えられない理由でも?」
バーニーはいつの間にか、モニカとの距離を詰めていた。
近くに立たれると、改めてバーニーの背が伸びたことがよく分かる。昔は少し目線を上に向ければ、目が合ったのに。今は首を上に傾けないと、顔が見えない。
眼鏡の奥の怜悧な目は、モニカのことを冷たく追い詰めようとしていた。
モニカが一歩下がると、バーニーはすぐに一歩距離を詰める。逃さないとばかりに。
(ど、どうしよう、どうしよう、どうしよう……っ)
モニカは胸の前で手を組みあわせながら、カタカタと体を震わせる。
そうやって怯えた態度を見せれば、ますますバーニーの目は冷ややかになった。
(怒ってる、バーニーが怒ってる、ごめんなさいって謝らなきゃ、許してくださいってお願いしなきゃ……っ)
かつての記憶に支配されたモニカが、震える舌で謝罪の言葉を口にしかけたその時、誰かがモニカの体を強く引き寄せた。
「おぅおぅ、オレ様の女に手ぇ出すんじゃねぇよ」
モニカの腰を抱いているのは、華やかな礼服を身につけた黒髪の青年……
(ネ、ネローーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?)
なんで礼服なんぞを着ているのか、そして、わざわざこのタイミングで朝のアレを再現する必要があったのか。
モニカが絶句していると、今度は片方の肩がずしりと重くなった。
目だけを動かして見れば、ネロに負けずと煌びやかな礼服を身につけた金髪の美男子──リンが、モニカの肩を抱いている。
「オレの女に手を出すな、でございます」
(ネロと台詞がかぶってるーーーーーーーーーーっ!!)
モニカは目を限界まで見開いて、口をハクハクとさせた。
だが、それ以上に驚いているのはバーニーの方だろう。突然、場違いに派手な格好をした男が二人も現れて、割り込んできたのだ。
「な、なんですか、貴方達……」
本当になんなんでしょうね、とモニカは思った。無論、声に出したりはしなかったが。
それにしても、ネロにしろリンにしろ、やけに活き活きとした様子で楽しそうなのが、また頭が痛い。
ネロなんて、目がキラッキラと輝いているのだ。これは、モニカを心配して駆けつけたんじゃない。絶対に楽しんでいる。
挙句、リンに至っては、大真面目な顔でバーニーに宣言した。
「三角関係は様式として美しいのですが、四角関係は個人的に些かくどいかと…………ということですので、恐れ入りますが、お引き取りいただけますでしょうか?」
なんという暴論。
だが、その妙な勢いに気圧されたのか、馬鹿馬鹿しくなったのか、バーニーは鼻白んだ様子で後退り、ずれた眼鏡を指先で持ち上げた。
「……試合前に失礼しました」
バーニーはそれだけ告げて、モニカに背を向け、その場を立ち去る。
バーニーの姿が見えなくなったのを確認し、モニカはへなへなとその場にへたり込んだ。
「いやぁ、見たかオレ様の名演技! 惚れていいぞ、モニカ」
「今の一幕で、今日の任務の全てをやり遂げた気分です」
満足げなネロとリンを見上げ、モニカは死にそうな声で訊ねた。
「……あの、二人とも、その服装……は?」
ネロとリンが身につけているのは、これから夜会にでも行くのかというかのような、華やかな衣装である。もはや、場違いなんぞというレベルではない。
モニカの指摘にリンは大真面目に答えた。
「はい、我々の外見年齢で制服は無理があるとのご指摘をいただきましたので、改善いたしました」
「…………改善」
虚ろな声で呟くモニカに、リンはこくりと頷く。
「コンセプトは『まだ学祭が始まっていないのに、テンションが上がって礼服を着て来ちゃった浮かれポンチ二人組』でございます」
「完璧な変装だろ!」
リンもネロも、何も問題は無いと言わんばかりの態度である。
煌びやかな美男子二人に挟まれたモニカは、思わず両手で顔を覆う。
「……あのね、二人とも……助けてくれたのは、とてもありがたいんだけど…………お願いだから……もう、本当に本当に心の底からお願いだから……猫と鳥の姿でいてください……」
モニカは今朝の時点で二人に念を押さなかったことを、死ぬほど後悔した。
【1-1】の導入で登場した、山小屋に不釣り合いの立派な鏡。
「持ち込んだ知人」というのはルイスでした。