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【1−7】悪役令嬢は沈黙の魔女がお好き

 ルイスはモニカの薄茶の髪に薄く香油を馴染ませると、丁寧に丁寧に梳る。

「良いですか、美は一日にしてならず。毎日の積み重ねです。セレンディア学園は貴族の子女達が通う学び舎。あまりにみすぼらしい格好だと悪目立ちしてしまうのですよ」

 そうしてルイスはモニカの髪を整えると、今度は別のクリームを取り出し、モニカの肌に塗りたくる。モニカはもう、人形になったような心地でされるがままになっていた。

「肌も髪も保湿! これが最も重要です。香油とクリームは分けてあげますから、毎日寝る前に塗りなさい。良いですね?」

「は、はい……」

 頬をこね回されながら、モニカはか細い声で返事をする。

 ルイス・ミラーの美容に対するこだわりは徹底していた。彼は女性と見紛うほど美しい容姿の男である。年齢は二十代後半のはずだが、それよりだいぶ若く見える。

 そういった彼の美しさは、どうやら日頃の手入れの賜物らしい。

「……ルイスさんって、女の人より、女の人みたい……」

 思ったことをそのままポツリと口にすると、モニカの頬にクリームを塗り込んでいた手が、ガシッとモニカの顔に食い込んだ。痛い。

 ルイスは女性的な美しい顔に、背筋が凍りそうなほど冷ややかな笑みを浮かべていた。

「同期殿、一つ良いことを教えて差し上げましょう。私は『女みたい』と言われるのが死ぬほど嫌いなのです。前にそれを口にした馬鹿が、どんな目にあったか知りたいですか?」

 モニカの顔を鷲掴む手に力が篭る。

 頭蓋骨がミシミシと圧迫される恐怖にモニカは震え上がった。

「ごごごごごごめ、ごめめっ、ごめ、なさ、いっ! もう言いませんんん!」

「分かれば良いのです」

 ルイスはモニカの顔から手を離すと、香油とクリームの瓶をモニカの手に握らせる。

「きちんとお手入れをサボらないように……良いですね?」

 そう言ってルイスはニコリと微笑む。

 その笑顔はそこらの女性よりも美しく、そして竜よりも威圧感に満ちていた。


 * * *


 モニカがルイス・ミラーの家に滞在して三日が過ぎた。

 すぐに学園に潜入しなかったのは、ケルベック伯爵令嬢の到着を待つためである。ケルベック伯爵領は国境付近にあり、王都まで三日ほどかかるのだ。

 ケルベック伯爵令嬢の到着を待つ間、モニカはルイスにセレンディア学園や貴族の作法に関する知識を徹底的に叩き込まれ、ロザリーには規則正しい食事と睡眠の指導をされた。

 たった三日で劇的に変化があったわけではないのだが、ルイス曰く死人のようだった顔色は、だいぶマシになったように思う。夜になったら寝る生活も、最初は慣れなかったけれど、蝋燭とランプを没収されてしまえば、あとは寝る以外にすることはない。

 使い魔のネロは、日中は部屋の隅で本を読んで過ごしている。どうやらお気に入りの作家の小説をリンから借りたらしい。

 ネロは器用に猫の手でページをめくってロマンス小説を堪能し、気が向けばふらりと屋敷の周囲を散歩している。

 今日も、ネロは昼食を食べた後は腹ごなしに散歩に行っていたのだが、突然戻ってくると、ルイス達の目を盗んでモニカに話しかけた。

「おい、モニカ! 大変だ! なんかすごいクルクルが来たぞ!」

「……すごい……クルクル?」

「おぅ、オレンジ色のクルクルだ」

 オレンジ色のクルクルとは一体。

 モニカが困惑していると、リンが静かに現れ、モニカに声をかけた。

「モニカ殿、今回のセレンディア学園潜入作戦の協力者、ケルベック伯爵令嬢、イザベル・ノートン様がお見えになりました」


 * * *


「オーッホッホッホ! ご機嫌よう!」


 屋敷のどこにいても聞こえてきそうな高笑いをしてモニカを出迎えたのは、モニカと同じ年頃の少女だった。身につけているのは豪奢な金糸の刺繍を施した真紅のドレス。オレンジがかった明るい色の髪は立派な巻き髪で、ネロの言っていたクルクルとはこの髪のことらしい。

 モニカが気圧されて扉の前で立ち尽くしていると、イザベル・ノートン嬢は口元に扇子を当て、意地悪く目を細めてモニカを見た。

「あーら、ご機嫌よう、モニカ叔母様? 相も変わらず貧相な身なりでいらっしゃいますのね。貴女が我がケルベック伯爵家の末席に名を残しているなんて、わたくし恥ずかしくて仕方ありませんわ!」

 ぶつけられる明確な敵意に、モニカは青ざめ立ち尽くす。

 気の弱いモニカは、他人の悪意に敏感である。ほんの少しでも刺のある言葉を向けられただけで萎縮してしまう小心者なのだ。明確な悪意ある言葉に、早くもモニカの目には涙が滲んだ。

 だが、モニカがその場にうずくまるより先に、イザベル嬢は勝気そうな顔にニッコリと笑みを浮かべる。

「今のいかがですか? 悪役令嬢っぽくありませんでしたこと? わたくし、今回のお役目を頂いた時から、毎日ずっと欠かさずに発声練習をしてまいりましたの! この高笑いのキレは誰にも負けないと自負しておりますのよ!」

 高笑いのキレとはなんだろう。

 モニカが目を点にして呆然としていると、イザベル嬢はハッと何かに気づいたような顔をした。

「あらいけない、わたくしったら自己紹介もせずに、はしたない」

 そしてイザベル嬢はスカートの裾をつまむと、それはそれは優雅で美しい貴族の礼をした。

「お初にお目にかかりますわ〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレット様。ケルベック伯爵アズール・ノートンが娘、イザベル・ノートンと申します。黒竜討伐の際には大変お世話になりました。父と領民に代わって、感謝の意を述べさせてくださいまし」

 衝撃のあまり彫刻のようになってしまったモニカに、イザベル嬢はニッコリと微笑む。

 それは意地悪さなんて欠片も見当たらない、とびきり可愛らしく、何より親しみに満ちた愛らしい笑みだ。

「あぁ、十を超えるワイバーンの群れをたった一人で全て撃ち落とし、更にあの伝説のウォーガンの黒竜をも退けた七賢人様がこんなにお可愛らしいお方だったなんて! 聞けば、わたくしと一歳しか違わないと言うではありませんか!」

 一歳違いということは、十八歳だろうか、と麻痺した思考の片隅で考えていると、イザベル嬢はモニカの手を取り、頬を薔薇色に染めて、モニカの顔を覗きこんだ。

「あぁ、どうか……モニカお姉様とお呼びすることをお許しくださいますか?」

 まさかの年下だった。

「あ、あ、あの、えっと、その……」

 モニカが口をパクパクさせていると、今までソファに座ってこのやりとりをニコニコと眺めていたルイスが立ち上がり、無理矢理モニカの頭を下げさせた。

「ほらほら〈沈黙の魔女〉殿、これから貴女に協力してくださるイザベル様にご挨拶は?」

「よっ……よろ、しく……おねがい……しまふ」

 モニカが喉を引きつらせながら声を絞り出せば、ルイスはモニカの頭を下げさせたまま、やれやれとばかりに溜息を吐く。

「申し訳ありません、イザベル様。〈沈黙の魔女〉殿は少々シャイな方でして」

「いいえ、いいえ、気にしませんわ。モニカお姉様はシャイで……でも誰よりも強くて心優しく勇敢なお方であると、わたくし分かってますの!」

 一体それは誰のことだろう、とモニカは思った。少なくとも強くもないし、勇敢でもない。

 だが、イザベル嬢は完全に自分の世界にトリップしているらしく、薔薇色の頬に手を添え、うっとりと宙を見上げて語り出した。

「ウォーガンの黒竜は竜騎士団でも退治は難しいと言われていました。黒竜の吐き出す炎は冥府の炎。ありとあらゆるものを焼き尽くし、魔術師の防御結界をも無効にする……まさに最強最悪の凶悪な竜。それを、あぁ、たった一人で退治するなんて、誰にでもできることではありませんわ! しかも、黒竜を倒した後は、何も言わずにその場を立ち去るなんて……そんなの……そんなの、かっこよすぎますわぁー!」

 なお、モニカが黒竜退治に参加したのは、ルイスに「たまには運動をされてはいかがですかな?」と無理やり首根っこを掴まれ、引きずり出されたからである。

 宴に参加しなかったのも謙虚さ故にではなく、人見知り故にだ。

 だが、そんな事情を知らないイザベル嬢にとって、モニカは勇敢で謙虚な大魔術師に映ったらしい。

 盛大な誤解であるが、それを説明できるほどモニカは雄弁ではなかったし、ルイスにいたっては、この誤解を最大限に利用しようとしている。

「お姉様! 今回はフェリクス殿下の護衛のために、潜入されるとうかがっております! そのお手伝いができること、大変光栄に思いますわ! お姉さまが疑われることがないよう、わたくし、お姉さまを徹底的にいびって、いびって、いびり抜きますので! 安心して殿下の護衛に専念してくださいませね!」

 そう言ってイザベル嬢は、モニカの手を取り、ブンブンと縦に振る。

 完全にその場の空気に流されているモニカは、ただされるがままになりながら、か細い声で「はいぃ……」と言うのが精一杯だった。


 * * *


 イザベル嬢がモニカにしがみ付いて、キャアキャアとはしゃいでいる横で、ルイスはニコニコと優しげな笑みを浮かべつつ、少しだけ二人と距離を開ける。

 そこに音もなく、メイド服の美女──リンが近づき、ルイスに耳打ちした。

「セレンディア学園に潜入させていた魔法兵団の団員二名が、殿下に正体を見破られ、学園を追い出されたそうです」

 目敏い王子様だ、とルイスは声に出さず舌打ちする。

 護身用の魔導具が破壊されてから、念のために魔法兵団の団員を送り込んでいたのだが、こうも早く見破られるとは。

 これから入学することになるモニカとイザベルに、第二王子が疑いの目を向けることは必至だろう。

 ケルベック伯爵とルイスの間に直接的な繋がりはないが、第二王子は少なからず疑念を抱く筈だ。この二人がルイス・ミラーの手先ではないか、と。

「陽動役がいりますね」

「と、申しますと」

「モニカ殿とイザベル嬢が編入するのと同じタイミングで、うちの馬鹿弟子を編入させます」

 ルイスはニヤリと物騒な笑みを浮かべ、片眼鏡の奥の目を鋭くギラつかせた。

「そうすれば、間違いなく殿下の疑いの目はそちらにいくでしょう?」

 なお、ルイス・ミラーの弟子は、魔術師養成機関ミネルヴァの学舎を半壊させたことがある問題児である。



 対人能力に難のある〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレット。

 彼女のために悪役令嬢になりきっているイザベル嬢。

 そして、かつて学舎を崩壊させた前科があるルイス・ミラーの弟子。

 この色々とアレな三人が同時に編入するセレンディア学園は、いったいどのぐらいの早さで崩壊するのだろうか、とリンは密かに考えた。




「二ヶ月、と推測いたします」

「いきなりなんですか、馬鹿メイド」

 名門校セレンディア学園の余命(予想)である。


次回から、ようやく学園生活編が始まります。

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