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【7ー7】ノンフラグ・トライアングル

 チェス大会にミネルヴァの生徒が来る──そう聞いてから、モニカはろくに眠れぬ日が続いていた。

 大会当日の朝も目覚めは最悪で、日が出たばかりの時間に目が覚める。

 耳の奥では、友人だと思っていた少年の冷たい声がこだましていた。


 ──貴女なんて、人のいない山小屋にでも、引きこもっている方がお似合いだ。


 モニカはぐすっと鼻を鳴らして、頭から毛布をかぶる。

 すると、カツン……コトッ、という微かな音が部屋の中から聞こえた。モニカは毛布の端を少しだけ捲って音の方を見る。

「おぅ、これ、いけんじゃね? おっしゃ、乗せたぜ」

「これは手強い。ですが、これで如何でしょう?」

「うぉっ、ぐぬぬぬぬ……こ、これは……これはぁぁぁ……」

 屋根裏部屋の床では、メイド服の美女と黒猫がチェスボードを囲っていた。

 てっきりチェスをしているのかと思いきや、チェスボードの中心に、横倒しにした駒が高々と積み上げられている。

 黒猫のネロは、猫の手で器用に駒を抱えると、積み上げた駒の上に、慎重にそれを乗せる……が、バランスを崩してしまい、積み上げた駒はバラバラと崩れ落ちた。

「うぉぉぉぉ、やっぱり、猫の手でこれは厳しいぜ」

 悔しそうに駒を肉球でテシテシ叩くネロと、すまし顔で散らばった駒を片付けているルイスの契約精霊リン。

「……なにしてるの?」

 モニカが訊ねると、ネロは恥ずかしげもなくチェスの駒を掲げて言った。

「チェスだ!」

「白と黒の駒を交互に積み上げていき、崩した方が負けというルールです。なお、現在わたくしの七連勝中です」

 自分の知っているチェスと違う、とモニカは苦笑しつつベッドから下りる。

 リンが来ているということは、いつもの定例報告だろうか?

 モニカがのろのろと身支度を整えていると、リンがチェスの駒を片付けながら言った。

「本日はチェスの交流試合が、また四日後には学祭があると伺っております。外部の人間が複数出入りするため、わたくしも護衛につくよう、ルイス殿より命じられました」

 チェスの交流試合では、選手であるモニカとエリオットを除く生徒会役員は、他校の生徒の接待などに駆り出されるらしい。確かに、ネロとリンの二人がフェリクスの警備をしてくれれば、モニカは安心してチェスに集中できる。

 ケイシーの件があったばかりなので、ルイスが警戒するのは当然のことだ。

「……あの……リンさん」

「はい」

「ケイシーは、その後……どうなりましたか?」

 フェリクスの暗殺を目論んだケイシーは、本来なら処刑されるところだったが、暗殺未遂に関する顛末を正直に話すことを条件に、ルイスが身柄を保護することになっていた。

 だが、もしケイシーが取り調べに抵抗したら……ルイスの容赦の無さを知っているモニカは、震えが止まらない。

「ブライト伯爵令嬢ケイシー・グローヴ嬢は取り調べに素直に応じられました。ルイス殿は既にブライト伯爵と秘密裏に接触しております」

 ケイシーの父、ブライト伯爵は、全ては自分の責任であると供述し、ランドール王国との関係については頑なに否定しているらしい。

 だが、ルイスはランドール王国側も暗殺未遂に関与していると見て、暗殺用魔導具〈螺炎〉の入手経路を洗っているのだとか。

「ケイシー・グローヴ嬢は先日、北東部にある修道院に送られました」

「……そう、ですか」

 ケイシーの悲痛な声を思い出すたびに、モニカの胸は苦しくなる。

 ケイシーはランドール王国に恩義を感じていた。だから、クロックフォード公爵がランドール侵攻を考えていると知り、それを阻止しようとした。

 いずれ、フェリクスが国王になったら……フェリクスの後ろ盾であるクロックフォード公爵は、フェリクスにランドール王国を攻めさせ、ゆくゆくは帝国との戦争を始めるだろう。

 帝国は強大だが、最近若い皇帝に代替わりをしたばかりで、体制が揺らいでいる。付け入るなら絶好の機会だ。

 だからといって、モニカにはフェリクスが暗殺されるのを黙って見過ごすことはできない。

(……どうするのが、一番正しいんだろう)

 どの陣営も、一枚岩ではないのだ。

 私財のために動く者、国益のために動く者、理想に燃える者、平和を望む者、更なる発展を望む者──多くの思惑、理想、欲望が渦をなしている。それが政治というものだ。

 モニカは七賢人になってからも、まつりごとには近づかず、山小屋に引きこもっていた。政治から目を背け、関わらないのが一番だと硬く信じて。

 だが、きっともう、今まで通りではダメなのだ。

 モニカは今まで目を背けていた政治闘争と静かに向き合う。

(……殿下は、あんなにすごい人なのに……どうしてクロックフォード公爵の言いなりなんだろう)

 フェリクスが優秀なことは誰もが知っている。

 それと同じくらい、彼が母方の祖父であるクロックフォード公爵の言いなりであることも、有名な事実だった。政治に疎いモニカでも、小耳に挟んだことがある。

(……殿下は、ランドールや帝国と戦争がしたいのかな……戦争になっても構わないって、思ってるのかな……)

 モニカにはいまだに、フェリクス・アーク・リディルという人物のことが掴めなかった。

 同じ生徒会役員でも、シリルやエリオットなどは、出会ったばかりの頃に比べて、彼らの性格や思想が見えてきたように思う。


 例えばシリルは自分にも他人にも厳しく、プライドの高い人物だ。多少視野が狭くなりがちだが、周囲を気遣うことができるし、面倒見も良い。

 フェリクスに認められたことを誇り、誰よりもフェリクスに心酔している。


 エリオットは身分制度に固執し、貴族は貴族らしく、平民は平民らしくあるべきという思想の持ち主だ。

 だからこそ軽薄なようでいて、根の部分は真面目。

 モニカを相手にキャスリングを使ったことを気に病むぐらいに、生真面目である。


 今まで人と向き合うことを避けてきたモニカだが、セレンディア学園に潜入して、様々な人と触れ合う内に、少しずつ見えてきたものもある。

 その人が何を一番大事にしているかを知れば、おのずとその人間のことが見えてくるのだ。


 ケイシーは家族を。

 エリオットは貴族としての矜持を。

 シリルはフェリクスを。


 みんな、それぞれ大事にしているものや信念があって、それを守るために戦っている。

(……じゃあ、殿下は? ……殿下は、何を守るために戦っているんだろう?)

 モニカから見たフェリクスは、穏やかで人当たりが良く社交的で……何を考えているか分からない人だ。

 だが、それでも……


『私がお茶会に顔を出しても、誰もランドールの技術を使ったチョコレートを出してはくれないんだ。美味しい物に罪はないのにね』


 権力闘争など、くだらないとぼやく彼の冷めた横顔は……嘘ではないと思うのだ。

(……殿下は死なせない。死なせちゃ、いけない)

 だからこそ、このチェス大会も四日後の学祭も、無事に成功させなくてはならない。

 そのためにも、ネロとリンとしっかり役割分担をしておかなくては。

 モニカは、ネロとリンに向き直った。

「今日の配置を確認したい、です。ネロはこの間の〈螺炎〉みたいに、不審な魔力反応が無いか見てて。リンさんは、風の精霊だから遠くの音まで聴けますよね? 殿下の周囲で不審な会話が無いか、気をつけていてください」

 モニカの指示にネロが「合点!」と高らかに肉球を掲げる。

 リンは「承知しました」と頷き、モニカに一つの提案をした。

「実は、第二王子の護衛をするにあたって、周囲に不審に思われない方法をネロ殿とチェスの駒を積みつつ、話し合いまして……」

「おう、そうだ。見ろモニカ!」

 ネロとリンの周囲を光の粒子が包み込み、その姿を変えていく。やがて光が収まると、そこにはセレンディア学園の制服を着た、二人の美丈夫がいた。

 かたや黒髪のワイルドな顔立ちの男、かたや短い金髪の華奢な美男子である。

 黒髪は当然ネロだが、金髪の男は……もしや……。

「あ、あああ、あの、えっ? もしかして……リン、さん、ですか?」

「いかにも、ルイス・ミラーが契約精霊リィンズベルフィードにございます」

 精霊には性別がないので、人間に化ける時に男女どちらにも化けることができると、以前モニカは本で読んだことがある。

 だが、実際に女性から男性に化ける瞬間を目の当たりにすると、やはり驚くものである。骨格は細身だが間違いなく成人男性のそれだし、声もいつもより低くなっている。

「どうだ! これなら怪しまれずに校舎をうろつけるだろ!」

 得意げなネロの横で、リンが無表情に本を一冊取り出した。

「この小説の中で、ヒロインが悪い男に絡まれ、同級生が『オレの女に手を出すな』とヒロインを庇うシーンがありました」

「は、はぁ……」

「モニカ殿が絡まれたら、このシーンを再現するので、安心して悪い男に絡まれてください」

「…………」

 絶句するモニカの横では、ネロが爛々と目を輝かせている。

「あー、それいいな! 楽しそうだな! オレ様もやりたい!」

「わたくしとモニカ殿とネロ殿の三角関係ですね。非常に心躍る展開です」

 モニカの心は何一つ躍らない展開である。

 モニカは沈痛な顔で額に手を当てつつ、口を開いた。

「あのね、二人とも……その外見年齢で制服は……逆に目立つと……思う……」

 黒髪と金髪の美丈夫二人は、全く同時に動きを止めて、顔を強張らせた。

「にゃ、にゃにぃ!?」

「…………なんと」

 どうにもこの二人、自分の外見年齢を正確に把握していない節がある。

 ネロもリンも、人間に化けた時の外見年齢は凡そ二十代半ば程度。言うまでもなく、制服を着た不審者である。

 モニカがそのことを伝えれば、二人は額を突き合わせて、ならばあの服で、いやいやあの服で……と作戦会議を始める。

 そもそもネロは猫に、リンは鳥に化けることができるのだ。わざわざ人間に化ける必要などないではないか。

 しかし、二人があまりにも真剣に服装について議論し合っているので、モニカは二人を放置して部屋を出ることにした。

 今日はラナの部屋に行く約束をしているのだ。あまり、のんびりはしていられない。


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