【7ー5】音楽家のチェス
チェス大会でセレンディア学園の中堅を務める、高等科三年ベンジャミン・モールディングは、宮中音楽家の息子である。
幼少期から音楽を学んでおり、演奏から作曲まで手がけている彼には、既に社交界にファンがいるのだとかなんとか。
そんなベンジャミンは亜麻色の真っすぐな髪を肩まで垂らした、繊細で儚げな容姿の青年である。
……繰り返すが、儚げな青年である。
「チェスとは音楽! 棋譜は即ち譜面! 棋譜を見れば、一局指せば、相手のチェスの音楽性というものが見えてくる! フォルテ! フォルテ! スフォルツァンド! と激しく攻めたてるチェスもあれば、どっしりと構える古典曲のような荘厳さを感じるチェスもある! エリオットのチェスはさながら
顔を真っ赤にして、唾を飛ばしながら力説するベンジャミンに、一体いつ息継ぎをしているのだろうとモニカは真剣に思った。
その横に立つエリオットは、くたびれた顔で肩を竦めている。
「ちょっと芸術家肌の奴でさ。まぁ、これが始まると長いんだ」
「は、はぁ」
「適当に聞き流してた方がいいぜ」
エリオットの声が聞こえているのかいないのか、ベンジャミンは細く繊細な指を指揮棒でも振るかのように動かし、恍惚とした目でチェス盤を見つめている。
チェス盤の並びは、モニカとベンジャミンの対局が終わった時のものだ。
「ノートン嬢のチェスは例えるなら、オーケストラの奏でる組曲! 序章から最終章まで一つ一つの音が緻密な計算のもとに作られている無駄の無い譜面。全ての楽器の奏でる完璧なハーモニーのもとに作られる、壮大かつ荘厳な調べは、音楽家の魂の集大成! まさに音楽の神が我らに与えし奇跡の楽譜と言っても過言ではない! ……つまり私が何を言いたいかと言うと……」
ベンジャミンはモニカと向き合うと、モニカの薄い肩にポンと手を置き、言った。
「大将は君だ。頑張れ」
「あぁ、俺もそう思う」
ベンジャミンの言葉に、エリオットもあっさり同意する。
モニカは頭を抱えてうずくまり悲鳴を上げた。
「む、むむ、無理ですぅぅぅぅぅぅ!」
* * *
チェス大会の日まで、選抜に選ばれた選手は放課後に残って、ひたすらチェスをする。
その特訓の場でモニカは初めて、中堅のベンジャミン・モールディングと対局をした。
ベンジャミンは選抜に選ばれるだけあって強敵である。だが、エリオットに「ステイルメイトは駄目だぞ」と釘を刺されていたので、モニカは手加減をせずに全力で挑み、そして彼に勝利した。
その結果が、冒頭のアレである。
「この中で一番弱いのは私だ。ならば、私が先鋒になるのが、道理だろう!」
ベンジャミンは、それが当然とばかりに腕組みをして言いきる。
モニカは勢い良く首を横に振った。
「そ、そそ、そんな、こと、ない、です。わたしが、いちばん、素人、です、から」
「素人だろうが玄人だろうが、強い奴が大将だ。私は嘘も謙遜も言わない! 『借金取りと恋人に嘘は吐いても、音楽とチェスで嘘は吐くな』が我が家の家訓だ!」
胸を張って言うような家訓ではない。が、エリオットは呆れたように肩を竦めただけだった。どうやら、この手のやり取りに慣れているらしい。
ベンジャミンはエリオットの呆れの眼差しなど目に入らぬとばかりに、指を振りながら力説する。
「良いか、ノートン嬢。私のチェスは無限の音楽。時に激しく、時に切なく。軽やかにも重厚にも壮大かつ荘厳にも! ありとあらゆる音楽性をチェスで再現し、奏でることができる──が、だからといって、チェスに滅茶苦茶強い訳じゃない!」
最後の一言だけ、キメ顔であった。
「……あの、じゅ、充分にお強いです、から……っ」
「確かに私は、まぁまぁ、そこそこ、それなりに強いが、ずば抜けて強い訳じゃないのは自覚している。だが、君の強さは確かに本物だ。君が大将をやらずに誰がやる」
エリオットもそうだそうだと言わんばかりに、うんうん頷いていた。
あぁ、このままでは間違いなく、自分が大将にされてしまう!
モニカは必死で二人に縋りついて懇願した。
「お願いです、お願いです……先鋒でも怖いのに…………大将なんかに、されたら……」
めくるめく過去の記憶が、モニカの脳裏に蘇る。
過呼吸を起こした面接。胃の中身をぶちまけた式典リハーサル。
大将になんてなった日には、その二の舞になるのが目に見えている。
モニカがメソメソと泣いていると、エリオットは顎に指を添えて、垂れ目を細めた。
「まぁ、ボイド先生はもう順番の申請は出してるだろうから、変更するのはちょっと面倒だろうし……このままいくことになるんだろうなぁ……そうなると、俺が大将のままかぁ……」
エリオットは気が重いという顔で、前髪をぐしゃりと撫でつける。
「今年の俺達って、期待されてるんだぜ? なにせ、前回は我がセレンディア学園の圧勝だったからな」
エリオットの言葉に、モニカはふとフェリクスの言葉を思い出した。
『今年も生徒会役員から二名選出されるなんて、嬉しい限りだ』
先日、モニカとエリオットが選手になった旨を報告した際、フェリクスはそう言っていた。
「あのぅ、去年は……生徒会の方が、どなたか、出場したん、ですか?」
「殿下とメイウッド総務だよ。ちなみに殿下が中堅で、大将がメイウッド総務な」
「………………えっ」
エリオットの言葉にモニカは目を剥いた。
基本的にこの手のものは、三番手の大将が一番の実力者である。だから、てっきり、それがフェリクスだと思っていたのだが……。
生徒会役員の中で、一番「切れ者」という印象から遠い、総務のニールが大将だったなんて!
「メイウッド総務って、気が利くだろ? こっちが何をして欲しいか、すぐ察してくれるっていうか」
「……は、はい」
「だからこそ、チェスではその逆ができるんだよ。こっちが攻められると嫌なところ、容赦なく攻めてくるんだ……あれは結構えげつないぜ」
あの優しそうなニールが、相手の策を完封する姿は、なかなか想像し難いものである。
人当たりの良いニールの笑顔を思い出し、モニカが首を捻っていると、ベンジャミンが指揮のタクトを振るように指を振りつつ口を挟んだ。
「メイウッド総務のチェスは、極めて高度な即興曲のようだな。相手の動きを読み、それに合わせた完璧な対応は実に素晴らしい!」
「あのぅ……それなら、殿下のチェスは?」
ベンジャミンに小声で訊ねつつ、モニカは先日のフェリクスとの対局を思い出す。
あの時の勝負はモニカの圧勝だったが、フェリクスはあまり本気を出していないように見えた──というより、フェリクスのチェスは手の内を晒さないようなチェスなのだ。
エリオットのチェスは、彼の信念のようなものが垣間見えたが、フェリクスのチェスはそれを徹底的に隠しているように感じた。
だからこそ、ベンジャミンがフェリクスのチェスをどう感じたのか、モニカは興味があったのだ。
モニカの問いに、ベンジャミンは顎に手を当て、目を閉じる。
「殿下のチェスから、音楽性を読み取ることは非常に難しい。だが、そうだな……敢えて言うなら……ノートン嬢のチェスに似ているかもしれん」
「…………え?」
モニカがキョトンと目を丸くすれば、ベンジャミンは指揮棒のように動かしていた指を高く振り上げた位置でピタリと止めた。
そして、ギロチンの刃を下ろすかのように、指を真っ直ぐに振り下ろす。
「無駄がなく、正確……ありとあらゆる手で、確実に王を屠るチェスだ」
【生徒会役員のチェスの強さ】
まぁまぁ強い→シリル、ブリジット
だいぶ強い→エリオット
滅茶苦茶強い→ニール、モニカ
???→フェリクス