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【7ー3】×××

 ──それはダーズヴィー伯爵家長男、エリオット・ハワードが、まだ六歳の時の話だ。


 エリオットは父に連れられて初めてクロックフォード公爵家を訪れ、×××に出会った。

 ×××はエリオットと同じ年だが、体の弱い少年で、城を離れて祖父の家で療養しているらしい。エリオットが連れてこられたのは、そんな×××の話相手になるためだ。

 だが、×××を見たエリオットは不快感に駆られた。

 ×××は小柄で痩せっぽっちで、気が弱かった。剣術も馬術もてんで駄目。社交ダンスも下手くそ。物覚えが悪くて勉強の成績も悪い。本当に何をやらせても駄目な少年だったのだ。

 おまけに人見知りで、人前に出ると上手く喋ることができず、すぐに舌を噛む。

 ×××よりも、従者の少年の方がよっぽど立ち振る舞いも喋り方も堂々としているぐらいだ。

 あんな駄目なチビが主人なんて大変だなぁと、エリオットは密かに従者の少年に同情すらした。

 何より無能な×××が、いずれ自分達の上に立つのかもしれないと思うと、エリオットは腹立たしくて仕方がない。

 だから、その時のエリオットは六歳の少年らしい意地悪さで、×××を馬鹿にしたり、からかったりした。

 その度に、×××は悲しそうに俯いて、こう言う。

「……ちゃんとできなくて、ごめんなさい……」

 なんて惨めな奴だろう。エリオットよりもずっとずっと位の高い人間の癖に。

 いずれは人の上に立たなくてはいけなくなるのに。



 人よりも劣っている×××だが、一つだけ詳しいものがあった。それが天文学だ。

 天文学なんて将来何の役にも立たないのに、×××は星の話題になると目をキラキラさせるし、暇さえあれば天文学の本を読んでいた。

 だから、エリオットは大人や従者の目を盗んで、×××が大事にしている天文学の本をこっそり木の上に隠してやった。

 案の定、×××は半泣きになって、本を返してほしいとエリオットに縋りつく。

「あそこの木の上にあるぜ。そんなに高い木じゃないし、あれぐらい簡単に取れるだろ?」

 ×××は真っ青になって木を見上げていた。運動神経の悪いこの少年が、一人で木に登れるはずがない。

 そうと知っていて、エリオットはニヤニヤしながら、少年を煽った。

「またいつもみたいに、あの従者に泣きつくのか? それとも、大人に言いつけるか? 自分じゃ何もできませんって」

「…………っ」

 ×××は強張った顔で木を見上げていたが、やがてキュッと唇を噛み締めると、木によじ登り始めた。

 しかし、全く手足の動かし方がなってない。ほんの少し登っただけで、×××はカタカタ震えて動かなくなってしまう。

「弱虫」

 エリオットがボソリと呟けば、×××は震える手を枝に伸ばし……その枝を掴み損ねて、落下した。

 大した高さじゃないからと、エリオットは黙って見ていたが、地面に倒れた×××の様子が何やらおかしい。

 恐る恐る近づいてみると、鋭い枝が×××の脇腹に刺さっているのが見えた。落下地点に落ちていた枝が刺さったのだ。×××の脇腹は枝が刺さったところを中心に、じわじわと赤い染みが広がっていく。

 エリオットは真っ青になって悲鳴をあげ、大人達を呼んだ。




「お前は何をしたか、分かっているのか」

 そう言って父は、エリオットの頬を殴った。エリオットは言い訳をしなかった。全ては自分の軽率な行動が原因だと分かっていたからだ。

 ×××の怪我はさほど深くはなく、命に別状は無いという。だが、それでも数針縫わなくてはならないほどの怪我だった。

「お前は、あの方に一生残る傷跡をつけたのだ。その罪は、お前の命程度で贖えるものではない」

 そう言った父は、自らの首を差し出す覚悟をしていた。

 だが、そこに割って入ったのは、手当てを受けたばかりの×××だった。


「お待ちください!」


 ×××は従者の少年に支えられながら、それでも自分の足で立っていた。

 顔色は真っ青で、じっとりと汗が滲んでいる。当然だ、少し前に縫合手術を終えたばかりなのだから。

「エリオットは、悪くありません、私が、ふざけて木に登ったんです。エリオットはそれを止めようとしたし、身を挺して私のことを庇ってくれたんです」

 大嘘だ。×××が落ちた瞬間をエリオットはニヤニヤ笑いながら見ていた。あの程度で怪我をするはずがないとたかを括って。

 だが、×××がエリオットを庇ったおかげで、エリオットはお咎め無しで済んだ。父も首を差し出さずに済んだのだ。




 後に、エリオットは×××の部屋に押しかけ、訊ねた。

「なんで、俺を庇った? あの事故は俺のせいだろう? お前は俺のせいで大怪我をしたんだぞ」

 もしかして自分に恩を着せるつもりだったのだろうか、とエリオットが疑り深く考えていると、×××は困ったように眉を下げて言う。

「……木から落ちたのは、私が上手に木登りをできなかったのが悪いんだ。だから、エリオットを責める理由が思いつかない」

 まるで、それが当然と言わんばかりの口調だった。

 上手に木登りができなかった自分が悪いのだと、本気でそう思っている顔だった。

「……その怪我が治ったら、木登り教えてやるよ」

 エリオットがボソボソとそう言えば、×××は水色の目をキラキラと輝かせる。

「本当? 嬉しいな。木の上からなら、もっと星が綺麗に見えると、以前から思っていたんだ」

 そう言って笑う×××は、本当に心の底から嬉しそうな笑顔だった。



 * * *



 唐突に昔のことを思い出したのは、モニカ・ノートンの言葉が、あの少年の言葉と重なったからだ。

 何故自分を責めないのかと問うエリオットに、モニカは言った。


 ──ごめんなさい。わたしには、怒る理由が、思いつかない、です。


 ルールを確認しなかった自分が悪いのだと、そう言って。

 あの時の少年と、同じ顔で。

(あぁ、ようやく合点がいったぞ。だからあいつは、ノートン嬢を構いたがるのか)

 そんなことを頭の隅で考えつつ、エリオットは白のビショップを動かす。

 モニカは間髪入れず、次の手を指してきた。

 前回もそうだったが、モニカは駒を指すスピードが異様に早い。基本的にモニカは長考しないのだ。エリオットが駒を動かしたら、すかさず次の手を指す。

 そうしてモニカが黒のクイーンを動かしたところで、ゲームは終了した。

 エリオットは盤面を睨み、口を開く。

「……ステイルメイト(引き分け)か」

 今回はハンデ無し、先攻はエリオットだったにも関わらず、引き分け。

 それも、まだ数回しかチェスをしたことがないような少女相手に、だ。

 モニカは悔しそうな顔をするでも、嬉しそうな顔をするでもなく、盤面をじっと見つめていた。恐らく、今のゲームを振り返っているのだろう。

「チェスってさ、性格が出るんだよな」

「……え?」

 エリオットの独り言のような呟きに、モニカがパチパチと瞬きをしてエリオットを見る。

 エリオットは垂れ目を眇めて、軽く肩を竦めた。

「シリルなんかは分かりやすく『王を守る』チェスをする。いわゆる守備が硬いタイプだな。君はその逆だ」

 厳密にはモニカのチェスは、攻撃的とは少し違う。

 言うなれば、徹底した理詰めの、無駄のない手。

「君は、勝利のためならキングだって囮にするだろ」

 モニカ・ノートンにとって、キングの駒もポーンの駒も等しく同じ価値のものだ。

 だから、少しでも勝率が上がるのなら、どんな駒でも躊躇わず犠牲にできる。


 ──だからこそ無慈悲で、残酷なほど強い。


 今でこそ引き分けだったが、モニカのチェスの経験は、たったの三回だけ。三回目でこれなのだ。

 もし、モニカが更に経験を積み、駆け引きを覚えたら……恐ろしい化け物になるだろう。

 そんな予感にエリオットは背筋をぞくりと震わせる。

 フェリクスですら身の丈を測りかねる圧倒的な才能を持ちながら、内気で卑屈な性格──そのアンバランスさは、あまりにも危うい。

 モニカのことをじっと観察していると、モニカが小さく口を開いた。

「……ハワード様の、チェスは」

「へぇ? 素人なのに俺のチェスについて語るのか?」

「……駒の役職に、固執しているように、見えました」

 ピクリとエリオットの眉が跳ねる。

 モニカの指摘は、以前、教師にもされたことだ。

 エリオットのチェスは、あまりにも駒の役職に固執しすぎる。

 クイーンはクイーンらしく、ポーンはポーンらしく……より上位の駒を活躍させる布陣で。

 それはある意味、駒に価値を見出さないモニカと対極にあるチェスと言っても良い。

 モニカはエリオット陣営のポーンを指さして言う。

「今のゲーム、ポーンがプロモーション(※敵陣の最奥まで辿り着いたポーンがクイーンなどの駒になれること)できる局面がありました。でも、ハワード様は最善手のプロモーションを、選ばなかった」

 よく気付いたものだと、エリオットは密かに舌を巻く。

 そうだ、確かにエリオットはプロモーションが最善手の局面で、それを避けた。

「……俺は、成り上がりが嫌いでね」

 エリオットは白のポーンを一つつまみ、自陣に戻す。

 敵陣の最奥まで切り込んだ兵士は、成り上がることができる──そのルールが、エリオットは死ぬほど嫌いだ。

「俺の叔父はあろうことか平民の女に入れ込み、正妻にした。純朴で心の優しい娘だと叔父は言っていたよ。だが、結局その女は叔父の金を使い込んだ。裏切られた叔父は…………首を吊ったよ」

 天井からぶら下がり、揺れている叔父を一番に発見したのは、叔父にチェスを教わりに来ていたエリオットだ。

 叔父の屋敷は金目の物が殆ど無くなっていた。元平民の妻が叔父の死を知り、金目の物を握りしめて逃げ出したのだ──自らが自殺に追いやった男を、弔いもせずに。

「分かるか? 平民は平民、貴族は貴族らしくあるべきなんだ。その身分の垣根を超えると、必ず誰かが不幸になる」

 だから、エリオットは己の身の丈を弁えない平民が嫌いだ。成り上がり者を見ると虫唾が走る。

 最初、エリオットはモニカに対しても同じような感情を抱いていた。

 モニカ・ノートンは平民の癖にセレンディア学園に入学し、挙句、生徒会役員になった身の程知らずの成り上がりだ。

 そんなモニカのことが、エリオットは目障りで仕方がなかった……今までは。

(……たまにいるんだよな。身分の枠を飛び越えてしまう圧倒的な才能を持ってる奴が)

 そういう人間をどこに位置付ければ良いか、エリオットはいまだ答えを出せずにいる。

 だから、苦い顔で一言だけ忠告してやることにした。

「……ノートン嬢をどう評価するか、どこに位置付けるかは暫く保留にしておくぜ」

「は、はぁ」

「ただ、一つ忠告だ。類稀な才能を持って生まれた平民は、えてして無能に妬まれるか……ずる賢い奴に利用されるもんだ。俺はそうやって人生を狂わされた奴を一人知っている」

 エリオットの言葉に、モニカの顔が青ざめ、強張る。

「せいぜい、身の振り方に気をつけるんだな。きっと、これから君は更に注目されることになるだろうから」

「…………え?」

 ポカンとしているモニカに、エリオットは無言で黒板を示した。

 黒板には、ボイド教諭が何やら文字を書き込んでいる。



【チェス大会・選抜選手】

先鋒:モニカ・ノートン

中堅:ベンジャミン・モールディング

大将:エリオット・ハワード



 モニカの顔は唇まで真っ白になった。

「チェ、チェ、チェ、チェス、大会……っ??」

「学祭の四日前、最後の休日に、他校の代表を招いてチェスをするんだよ。予算案でそういうイベントがあるのは見てるだろ」

「わ、わわ、わたわたわたわた、わたし、がががが?」

 モニカが限界まで目を見開いてガタガタ震えていると、モニカのそばにボイド教諭が歩み寄る。

 数多の戦場を潜り抜けてきたような貫禄を持つスキンヘッドの大男は、モニカの顔など簡単に握り潰せそうなほど大きな手で、モニカの肩を叩いた。

 そして、無表情のまま低い声で一言。

「期待している」

「む、むむむむむむ、む、むむ、むむむっ、むっ、」

 多分「無理です」と言いたいんだろうなぁ、と思いつつ、エリオットは肩を竦めてモニカに言う。

「まぁ、気楽にやろうぜ、ノートン嬢」

 モニカはやはり「むむむむ」と同じ言葉を繰り返しながら痙攣していた。あれは半分ぐらい意識が飛んでいるんじゃなかろうか。

 プレッシャーに弱いところまで、記憶の中の少年にそっくりだと、エリオットは密かに苦笑を噛み殺した。


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