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【1−6】使い魔のことも思い出してあげてください

「エヴァレット様」

「………………、……ひゃ、ひゃいっ」

 ルイスの妻、ロザリーにそう呼びかけられたモニカは、返事をするのに心臓が二十回鼓動する程度の時間を要した。

 エヴァレット様という呼ばれ方に慣れておらず反応が遅れ、間が開いてしまったことに気づいたら今度はどのタイミングで返事をすれば良いのか分からなくなり、それでもロザリーが無言で返事を待っているので返事をしなくてはと精一杯勇気を振り絞った結果がこれである。みっともなさすぎて、いよいよ死にたい。

 だが、ロザリーはそんなモニカの態度を馬鹿にするでもなく、淡々と言った。

「失礼ですが、年齢をお訊ねしても宜しいでしょうか?」

「……あ、えっと……じゅ、じゅじゅ、十七…………ですっ。あの、ミラー夫人の方が、と、年上ですしっ、わたしなんかに、様づけとか、敬語、なんて……あの……えっと……」

 モニョモニョと口籠るモニカをロザリーはじっと見据えた。

 みすぼらしい娘を不躾に眺める目ではなく、何かを観察するような目でモニカを眺めたロザリーは、伸びっぱなしになっていたモニカの前髪をかきあげる。

「では、お言葉に甘えて……エヴァレット嬢、ちょっと失礼」

 そう言ってロザリーは、唐突にモニカの下瞼をぐいっと下に引っ張った。

 モニカが驚き、瞬きをすると「動かないで」と静かな声が静止を促す。

 更にロザリーは「口を開けてください」と指示をして口腔内を確認し、手や爪にいたるまで、くまなく全身を観察した。

「眼球運動に異常無し、歯肉の出血無し。ただし下瞼の裏側が白く、爪も白っぽい。その他、皮膚の乾燥、年齢に見合わぬ低体重……栄養失調及び、貧血の症状が見られるわね。一日の睡眠時間は?」

 ロザリーの問いかけに、モニカは俯き、もじもじと指をこねた。

 山小屋にこもり、計算三昧の生活をしていたモニカは、明確な就寝時間を決めていない。

 七賢人はそれなりに収入があり、蝋燭やランプの油を節約する必要もないので、とにかく体が限界を迎えて意識を失うまで、数字と向き合っていることがしょっちゅうだったのだ。

「え、えっと……その……寝る時間は……まちまち、で」

「一日の食事の回数は? 大体の食事量は?」

「お、お腹が減ったら、ナッツを食べたり……ビスケットを食べたり……」

 とにかく体が限界を訴えないと、モニカは就寝したり食事をしたりをしない。

 食事をする時も、満腹になると眠くなってしまうので、いつも空腹が満たせる最低限の量しか口にしていなかった。

 そんなモニカの現状を聞いたロザリーは、過去に大きな病気はしていないか、拒絶反応のある食材は無いかなどを矢継ぎ早に訊ねる。

 しどろもどろにモニカがそれに答え、ロザリーが質問を重ね、というのを数回繰り返したところで、ロザリーは質問を切り上げ、リンを呼んだ。

 メイド服姿の高位精霊はロザリーの呼びかけに素早く姿を見せる。主人のルイスを前にした時よりも、よっぽど迅速であった。

「お呼びですか、ロザリー様」

「釜にスープの鍋があるわ。温め直しておいてもらえるかしら。それと、ミルクを弱火で温めた物にパンをちぎって浸しておいて」

「かしこまりました」

 リンが一礼してその場を立ち去ると、ロザリーはモニカと向き合い、袖まくりをした。

 何をされるのだろうと、モニカがビクビクしていると、ロザリーはそんなモニカの肩を押して風呂場へ案内する。

「今の貴方を人間にするために必要なのは、充分な食事と睡眠よ。でも、その前に湯浴みをしましょう。体を清潔に保つことは、衛生における基本だわ」

 そう言ってロザリーはモニカを容赦なくひん剥き、風呂場に放り込んで全身をゴシゴシと磨きあげた。

 更に伸ばしっぱなしだった髪も「髪が目に入ると眼病の原因になるわ」と言って、ジャキジャキと切り揃える。その手つきに躊躇いも遠慮も無い。

 こざっぱりとしたモニカが、ロザリーのお古のワンピースに着替えたところで、ずっと離席していたルイスは姿を見せた。

「おや、随分と人間らしくなったではありませんか」

 結構な言い草である。

 モニカがあうあうと口を震わせていると、モニカの髪を梳いていたロザリーが、ルイスをギロリと睨んだ。

 その眼光は女性ながらに鋭く、静かな気迫に満ちている。

「よくも私の前にこんな患者を連れてきたわね、ルイス・ミラー。こんな世話の焼けそうな子、私が放っておけるわけがないでしょう」

 ロザリーが口にした「患者」の一言に、モニカは消え入りそうな声で「わたし、健康です……」と主張する。

 だが、ロザリーはキッパリ断言した。

「今の貴女は、誰が見ても歩く不健康よ」

 夫が夫なら、嫁も嫁である。あまり似ていない夫婦だが、歯にきぬ着せぬ物言いだけはそっくりだ。

 口をパクパクと開閉するモニカに、ルイスがちらりと目を向けて言う。

「ロザリーは医師です。言うことは素直に聞いた方がよいですぞ、同期殿」

 なるほどモニカを観察するように見る目は、患者の容体を診る医師のそれである。

 ロザリーは物静かな女性だが、患者に対して否と言わせない医師の頑固さがあった。そして今、モニカはそんな彼女に患者認定されているのだ。

「治療方法は、食事と睡眠時間の改善よ」

 ちょうどそのタイミングで、リンが三人分の食事を運んできてテーブルに並べた。

 パン、サラダ、鴨肉を焼いた物、それとスープと簡素な食事だが、モニカの分だけはパンがミルクで煮込まれており、肉も細かく刻まれている。

「無理に全部を食べろとは言わないわ。少量ずつでも構わないから、全てをバランス良く食べることを意識して」

「は、はい……」

 口に運んだスープもパンのミルク煮も、味は薄いが素朴で美味しかった。温かな食事をしたのは随分久しぶりな気がする。

 計算に夢中になると食べることを忘れがちなモニカは、食事に対しても同じことが言えた。食事に夢中になると他のことが目に入らなくなるのだ。とにかく、目の前の皿が空になるまで黙々と食事に専念してしまう(だから、普段は簡単に済ませているのだ)

 夢中で皿を空にすると、ロザリーは「よくできました」と言って、モニカの前にデザートの小皿を置いてくれた。デザートはサクランボのパイだ。

 但し、ルイスの分は無い。

「ロザリー、私の分は?」

 夢中でサクランボのパイを頬張るモニカをちらりと見つつ、ルイスが不満の声をあげる。

 ロザリーはルイスの前に食後の紅茶のカップを置きながら言った。

「あなたは砂糖を摂りすぎよ。どうせ、出掛け先でも紅茶にジャムと砂糖をドバドバ入れていたんでしょう? 家では砂糖を減らしなさい」

 そう言ってロザリーはシュガーポットをルイスの前から遠ざける。

 ルイスは悲しげに首を横にふると、懐から小瓶を取り出した。小瓶には度数の強いアルコールのラベルが貼られている。

 ルイスが度数の高い酒を紅茶のカップにぶちこもうとすると、ロザリーはさっとその小瓶を取り上げた。

「アルコールも控えてもらうわ」

「……おぉ、砂糖と酒が無くなったら、私は何を楽しみに生きていけば良いのですか?」

「貴方の妻は医師です。言うことは素直に聞いた方がよくってよ、旦那様?」

 先ほどモニカに向かってルイスが言った言葉を、そっくりそのまま返されたルイスは、むぅっと黙り込み、砂糖の入っていない紅茶を渋い顔で飲む。

 高慢なルイスがやりこめられている貴重な光景だったのだが、パイに夢中のモニカはその光景が目に入っていない。

 ついでに、荷物袋の中で腹を減らしているネロのことも、遂に思い出すことはなかった。


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