【6ー5】キャスリング
「だったら、簡単だと、思います」
モニカの発言に教室の空気が凍りついた。
──なんて恐れ知らずで……そして、恥知らずな小娘だろう。
エリオットは口の端を持ち上げ、垂れ目を剣呑に細めてモニカを睨む。
「分かっているのか、ノートン嬢。君は今、この教室にいる全員を敵に回したんだぜ?」
モニカは何も答えなかった。ただ、無言でじっと盤面を見据えている。
「おいおい、そこのポーンを一マス前に動かして『ほら、わたしでも簡単に動かせました!』とか言うんじゃないだろうな?」
やはりモニカは何も言わない。だが、盤面を見つめる無表情に、エリオットは見覚えがあった。
以前、モニカが会計記録の見直しを命じられた時と同じだ。あの時のモニカは、ブリジットに頬を叩かれても反応せず、ひたすら数字を目で追いかけていた。
あの時と同じ無表情に、エリオットは底の知れない妙な不気味さを覚える。
頭をよぎるのは、フェリクスが以前口にした言葉。
何故、モニカ・ノートンを会計にしたのか、と問うエリオットにフェリクスはこう答えた。
──ノートン嬢の『身の丈』が分からないからだよ。
(……だったら、俺が測ってやる……この女の『身の丈』を)
エリオットはモニカが睨んでいるチェスボードの駒を並べ直した。丁度、モニカの方に白い駒が並ぶように。
今までじっと盤面を見ていたモニカが、ゆっくりと顔を上げてエリオットを見る。
エリオットはあえて不敵に、ニヤリと笑ってやった。
「お試しにワンゲームやってみようじゃないか。こちらはクイーン抜きにしてやろう」
「……先攻は?」
「白が先攻。そちらからどうぞ?」
黒のクイーンを盤上から取り除きつつ言えば、モニカは丸い目で食い入るようにエリオットを見た。
「わたしが、先攻で、いいんですか?」
「あぁ、いいぜ」
余裕たっぷりの顔で頷きつつ、エリオットは胸の内で奇妙な焦燥を覚えた。
モニカ・ノートンは初心者の癖に気づいているのだ。このゲームは先攻の方が有利だと。
「……じゃあ、いきます」
そう言って、モニカは迷わず中央のポーンを二マス進める。
ポーンの進め方は一見単純なようで、案外複雑だ。
基本的には一歩ずつしか前に進めないのだが、前方に他の駒が無い時は、スタート地点から二マス動くことができる。
他にも敵の駒を取る時に限って動きが変則的になり、斜めに動くこともあるし、最奥まで進めば他の駒に「成り上がる」こともできる。
(……一回説明しただけで理解できるとは思えないな)
先手で中央のポーンを進めるのは、まぁよくある手である。前方のポーンを早めに動かして中央を開けないと、後ろの駒の通り道ができないからだ。
(……素人なりに考えた一手、ってとこかな)
冷めた目で盤上を見下ろし、エリオットもまた駒を動かす。
カツン、と心地良く響く駒の音はチェスに慣れた者の証だ。
それに比べてモニカの手つきときたら、いかにも素人丸出しである。駒の持ち方、置き方からしてなっていない。
──その癖、駒の動かし方に迷いがない。
エリオットが駒を置くと、モニカはすかさず次の駒を動かす。
このゲームは軽いお遊びだ。時間なんて測っていないし、そもそも持ち時間だって決めていない。ならば、好きなだけゆっくり悩めば良いだろうに、エリオットが駒を動かすとモニカは間髪入れず自陣の駒を動かすのだ。何も考えずに動かしているのではないかと、疑いたくなるぐらいの早さで。
(……そうやって俺にプレッシャーを与えるつもりか? …………いや)
盤面を見下ろし、エリオットは眉をひそめる。
モニカの指し筋は、まるで教本に書いてあるセオリーのようだ。
もし、これが他の人間ならエリオットはそこまで驚かなかっただろう。
だが、モニカは今初めてルールを知ったばかりの人間なのだ。
(……それなのに、ここまでセオリーを押さえられるものか?)
エリオットはしばし考えてから駒を動かす。また、すかさずモニカが駒を動かす。
たまらずエリオットは口を開いた。
「別に時間制限のある勝負じゃないんだぜ? ゆっくり考えたらどうだ?」
「………………」
返事はなく、モニカはただ盤上の駒を凝視している。
エリオットは少しだけ顔をしかめて次の手を指す。すぐさまモニカが次の手を指す。
いつしか、二人のテーブルの周りには人が集まり始めていた。
だが、今のエリオットはそんな周囲のギャラリーのことなど目に入らない。視線は盤上に固定され、片手で覆われた口元は、手の下で小さく引きつっている。
(……なんだ、これ?)
エリオットはこの教室の中でも、三本指に入る程の腕前だ。
クイーン抜きというハンデはあるけれど、それでもエリオットは手を抜いたりはしなかった。ハンデ付きで徹底的にモニカを叩きのめして、そうして白陣営の駒を一つ残らず取り払ってから、いたぶるようにチェックメイトしてやるつもりでいたのだ。
それなのに、今、追い詰められているのはエリオットの方ではないか。それは誰の目にも明らかだ。
モニカ・ノートンは初心者がよく見せるような奇手や突飛な手は指さなかった。まるでお手本のように綺麗な指し筋──それは非常に正確で、一切の無駄が無い。
エリオットの手を全て読んだ上で、その手を一つずつ潰し、エリオットの陣営を崩していく。
このままでは瓦解するのは時間の問題だ。
(……いや、待て)
盤面を睨んだエリオットは、一つ、逆転の目があることに気付いた。
まだ、エリオット陣営には動いていないキングとルークがある。そして、その間に他の駒は無い。
(……キャスリングが、使える)
特定の条件下でのみ、キングとルークを一手で同時に動かすことができる。それがキャスリングだ。
だが、エリオットはまだモニカにキャスリングを教えていない。キャスリングを使わずとも、モニカなど簡単にねじ伏せられると思っていたからだ。
(……キャスリングを使えば、勝てる)
だが、モニカはキャスリングのことを知らないのだ。
(それなのに、使うのか?)
エリオットのプライドが揺れる。
このまま敗北するか。モニカに教えていないキャスリングを使って勝利するか。
エリオットの手が止まった途端、周囲がざわつきだす。彼らは、何故エリオットがキャスリングをしないのか疑問に思っているのだろう。
──あぁ、そうだ。こいつらは、オレがモニカ・ノートンにキャスリングを教えていないことを知らないのだ。
そう気付いた時、エリオットの手は無意識に動いていた。
キングとルークの同時移動……キャスリングだ。
今まで盤面だけを見つめていたモニカが、パチパチと瞬きをしてエリオットを見る。
(やめろ、見るな)
モニカの視線から逃れるように、エリオットは目を逸らした。
それなのに、口だけはペラペラと流暢に言い訳を垂れ流す。
「今のはキャスリングと言って、まだ動かしてないキングとルークがあり、かつその間に他の駒が無い時、そしてキングがチェックされていない時に使える……」
「負けました」
エリオットの説明が終わるより早く、モニカが敗北を宣言する。
「今の、きゃすりんぐ? が正式なルールで有効なら、私の勝ちはありません」
エリオットは愕然とした。
何故、モニカ・ノートンは怒らないのだ。自分が教わっていないルールで負かされたのだ。こんなのフェアじゃないと怒っていい。彼女にはその権利がある。
それなのに、モニカは怒りを微塵も感じさせぬ顔で、眉を下げて笑った。
「……か、簡単って言って、ごめんなさい……チェス、思ったより難しかったです……どんなに最善手を考えても、相手が人間だから……不確定要素が多くて」
このゲームの勝者は、エリオットだ。
だが、エリオットの胸にあるのは苦い敗北感と……自己嫌悪。
いっそ、モニカが自分を責めてくれれば、いくらか気が楽になったかもしれない。
自分の教わっていない手を使うなんてフェアじゃない、と。そう糾弾すればいいのに、モニカはそんなことなど大した問題ではないとばかりに、駒を並べ直して、キャスリングの考察をしている。
エリオットはモニカに何か言おうとした。
それが謝罪なのか、それとも何故エリオットを責めないのだという疑問の声なのか、自分でも分からないまま。それでも、何か言わなくてはと思った。
だが、エリオットが声を発するより早く、この教室の教師ボイドが口を開く。
「そこの女子生徒。名前は」
モニカは視線を右に左に彷徨わせているが、この教室には女子生徒は数人しかいない。そして、ボイドの視線の先にいる女子生徒はモニカだけだ。
「モ、モ、モ……モニ、モニ、モニ……」
モニカはカタカタ震えながら、懸命に口を動かしていた……が、モニモニと同じ音を繰り返すだけで、とても名乗れていない。
ボイドはスキンヘッドで強面の男だ。その体は筋骨隆々と逞しく、チェスの教師より剣か槍を振り回している方が似合いそうな風貌である。モニカが怯えるのも無理はない。
エリオットはやれやれと息を吐いて、口を挟む。
「モニカ・ノートン嬢。俺と同じ、生徒会役員ですよ、ボイド先生」
「覚えた」
ボイドは腹の底から響く低い声で短く言い、一枚の紙をモニカに握らせる……それはチェスの授業の申込用紙だ。
モニカはまだモニモニと奇声を発しながら、涙目でボイドと申込用紙を交互に見ている。
そんなモニカに、ボイドは低く告げた。
「必ず受講しなさい」
モニカはモニモニと鳴きながら、言われるままにカクカクと首を縦に振る。
(……多分あれは、何を言われているか理解していない顔だな)
呆れたように目を細めて、エリオットはこっそり溜息を吐いた。