【6ー4】擬似戦争
その場から逃げ出したい時、いつの時代も使われる万能な言い訳がある。
──即ち「ちょっとトイレに行ってきます」
しかし、この万能な言い訳を誰も彼もが気安く口にできるわけではない。極度の恥ずかしがりやには、人前で発言をすることすらハードルが高いのである。
故にモニカは自分の席で硬直したまま、この万能な言い訳を言いかけては口を閉じ、また口を開きかけては閉じていた。
今度こそ言おう、次こそ言おう、会話が良い具合に途切れたら言おう、良い具合の途切れ方ってなんだろう、とにかく言おう、言おう、今度こそ、今度こそ……そうこうしている間に、魔力量測定器はじわじわとモニカに近づいてくる。今はケイシーとニールが水晶に手を当てていた。
あれに触れたらモニカは終わりだ。一般人ではないとバレてしまう。
「うーん、私は得意属性が火で、魔力量は52かぁ……微妙ねぇ」
「魔力量は若い内に魔術を使うほど伸びるって言いますし、これから伸びるかもしれませんよ」
ケイシーに続いてニールが水晶に触れる。ニールの結果は得意属性が土、魔力量は96。なかなか悪くない数字だ。
フェリクスが感心したようにニールに言う。
「メイウッド総務は、今まで魔術を使ったことはないのだっけ?」
「はい、座学を少し学んだ程度です。父はそこそこ使えるらしいんですけれど」
「メイウッド家は、代々土属性の魔術が得意な家系だからね」
今だ。今こそ「ちょっとトイレに行ってきます」と言うのだ……あぁ、でも、このタイミングだと殿下の台詞に割り込んだと思われないだろうか。
「次はオレの番っすー!」
グレンが元気にそう言って、手袋を外す。
(わあぁぁぁ、グレンさんが終わったら次はわたしの番……そうなる前に、逃げださないと……っ)
頭を抱えてダラダラと冷や汗を流していると、すぐ横でピシッという音が聞こえた。
(……ピシッ?)
音の出所は、グレンの手元の魔力量測定器だ。グレンの手が触れている水晶玉部分が赤く発光しており、そこに小さなヒビが入っている。
あっ、とグレンが声を上げた次の瞬間、水晶玉に大きな亀裂が入った。グレンは慌てて測定器から手を離す。
「先生〜! これ、壊れてるっす〜!」
「嘘でしょ。チミ、それいくらすると思ってるの?」
「ぎゃーーーっ、おおおおオレのせいじゃないっす! き、きっと不良品! 不良品なんスよ!」
水晶が赤く輝いたということは、グレンの得意属性は火ということになる。問題は魔力量だ。魔力量を示すメモリが一番端まで振り切れている。
あの測定器の最大数値は250、それを振り切るということはグレンの魔力量は250を超えているということになる……が、そんなことがありえるだろうか。
国内で魔力量が250を超えている者は、片手で数えられるほどしかいない。七賢人の中でも二人しかいないのだ。
(もし、グレンさんの魔力量が250超えなら、すごいことだけど……)
この場にいる誰もが、測定器の故障だと考えているらしい。それはモニカも同じだ。
グレンはヒビの入った測定器をあわあわと持ち上げて「これ、爆発とかしないっすよね? 大丈夫っすよね?」と大騒ぎしている。
他の生徒達もざわつきながら、グレンに注目していた──これは抜け出すチャンスだ。
モニカはケイシーの服の裾を引くと、小声で声をかけた。
「あの、わ、わたし……ちょっと、お手洗い、行ってきますっ」
「あぁ、うん」
ケイシーはモニカを疑うことなく、あっさりと頷いた。そのことにほっと胸を撫で下ろし、モニカは教室をこそこそと抜け出す。
(あ、危なかったぁ……)
はぁ〜〜〜〜〜と、長い息を吐いてモニカは壁にもたれかかる。
心臓がバクバクと音を立てていた。
しかし、ここで安心はしていられない。選択授業の見学時間はまだたっぷりと残っているのだ。このまま実践魔術の教室に戻らなかったら、ケイシーやフェリクスが不審に思うかもしれない。
トボトボと廊下を歩きながら、なんて言い訳をするかモニカは頭を悩ませる。
いっそ、腹痛で時間いっぱいトイレに篭っていたことにでもしようか……などと雑な言い訳を考えていると、前方に別の選択授業の教室が見えた。教室の戸にはガラスが嵌められていて、教室の中の様子がよく見える。
(……あれは……チェス?)
教室の中では生徒達が黙々とチェスを指していた。モニカはチェスをやったことがないし、ルールも知らないが、そういう卓上遊戯が貴族に人気だということは知っている。
(……この学園ではチェスも授業の一つなんだ……)
ポケットからリストを取り出してみれば、なるほど確かに選択授業の中にチェスがある。教室の人数を見た感じだと、それなりに人気のある授業のようだ。
(……あの駒の動きには、法則性があるのかな)
なんとなく一番近くのテーブルをガラス越しにじっと見ていると、目の前の扉がガラリと開いた。
ビクリとモニカは体を震わせ、一歩後ずさる。
扉を開けたのは、タレ目の優男──生徒会書記エリオット・ハワードだった。
かつて、モニカのダンスの練習を嘲笑い、役員章を奪って屋根に放り投げた男である。
モニカが反射的に襟元の役員章を握りしめると、エリオットはにんまりと唇を持ち上げて笑った。
「おや、殿下のお気に入りの子リスじゃないか。チェスに興味が? よぅし、俺が教えてやろう」
「い、いえ……あの……」
モニカが踵を返すより早く、エリオットの手がモニカの手首を掴み、教室の中に引き摺り込む。
教室でチェスをしていた者の数人が、手を止めてモニカに注目した。それが非常に気まずくて、モニカはさっと俯く。
「まぁ、ここに座れよ。チェス歴は何年? ……あぁ、もしかして、駒の名前も知らない?」
「は、はい、分からない、ですっ」
冗談めかしたエリオットの言葉に馬鹿正直に頷けば、エリオットは喉を鳴らして笑った。エリオットだけじゃない。教室中の人間がモニカに失笑している。
エリオットは肩を震わせて笑いながら、モニカの正面に座った。
「じゃあ駒の名前と動かし方から教えてやろう。これがポーン。一番弱い駒」
エリオットは白と黒の駒を持ち上げると、その名称と動かし方を説明する。
モニカはボードゲームやカードに関する知識が薄い。興味がなかったというより、今まで触れる機会が一度も無かったのだ。チェスとて、ミネルヴァに通っていた頃、貴族の子らがやっているのを遠目に見た程度である。
エリオットが駒の説明を終えると、モニカは恐る恐る片手を上げて訊ねた。
「……あのぅ、こ、これはそもそも……何をすれば勝ちの、ゲームなんでしょうか?」
「っはは! 本当にそこから分からないのか。なぁに、勝敗は簡単さ。敵のキングを取る。それだけだ」
エリオットは白のキングを指先でつまみ、目を細めて物騒に笑う。
「チェスは擬似戦争──貴族にとって、戦略に対する感覚を身につける重要な嗜みだからね」
「……擬似戦争」
モニカは盤面に並べられた駒を見下ろした。
ポーン、ナイト、ルーク、ビショップ、クイーン、キング……その六種類の駒による擬似戦争。
「……魔法兵は、どの役職なんでしょうか?」
「ビショップあたりかな。昔は僧兵が魔術を好んで使っていたからね」
「……じゃあ、魔術師──僧兵の魔術の力量は設定されていますか? 主に得意魔術とその範囲……それと、防御結界を張る速度は? それと、兵士の個々の戦闘能力、砦の食糧の備蓄は?」
「は?」
目を点にするエリオットに、モニカは更に早口で問う。
「……この擬似戦争は季節、気候、温度は決められていますか? 地形の高さは? 風上は?」
大真面目なモニカの問いに、エリオットはしばしポカンとしていたが、やがてケラケラと声を上げて笑いだした。
「おいおい、この盤面にそれだけの要素が存在するわけがないだろう! これはただのゲームだぜ、子リス。まるで戦争経験者みたいな物言いだな!」
「……戦争は、やったこと、ない、です」
そう、モニカは人間同士の戦争には参加したことがない──が、竜の討伐には参加したことがある。
その際に、モニカはルイス・ミラーから戦略図の見方を徹底的に叩き込まれていた。
モニカが討伐したワイバーンは空中で仕留めなくてはならなかった──だからこそ、正確な魔術を放つためには地形を把握した上で、風向きや風の強さを把握している必要があった。
だが、この盤面にはそれがないのだ。
「……ただの平面で、良いんですね? 高さは関係しない。駒も決められた動きしかしない。上官同士の交渉もなく、ただ王を討つだけ」
「あ、あぁ」
念を押すようにモニカが問えば、エリオットは気味が悪いものを見るような顔で頷く。
モニカは盤面を見つめたまま、口を開いた。
「だったら、簡単だと、思います」