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【番外編1】恋心と尻尾

 今までに使ったことがないようなフカフカのベッドに座り、これまた、今まで一度も袖を通したことがないシルクの寝間着を着たモニカは、自分に向けられる熱い眼差しに居心地の悪い思いをしつつ、小説のページを捲った。

 最後のページまで読み終えたところで、モニカはふぅっと息を吐いて、疲れた目を擦る。

 すると、ずっとベッドサイドに座っていたイザベルは、目をキラキラと輝かせて口を開いた。

「どうでしたか? マローネ・フィリルの代表作『白薔薇の乙女は花園に眠る』は!」

「え、えっと……」

 モニカは返す言葉に詰まり、視線をうろうろと彷徨わせる。

「い、言い回しが……独特、ですね」

「そうなんです、マローネ・フィリルは詩的な言葉使いがとても美しくて、なによりも情景描写とヒロインの心理描写が素晴らしいんですの。でもでも、ストーリーも最高ですのよ。なんと言っても三章の別れのシーンは涙無しに読むことはできませんわ」

 まさにその三章を涙無しに読んでしまったモニカは、なんだかとても申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 幼少期から物語の類を読み慣れていないモニカは、この手の創作物特有の言い回しが苦手だ。

 白磁の如く滑らかな柔肌とか、黒檀を溶かし宝石の粉をちりばめたような黒髪とか、野苺のように瑞々しい唇などと言われても「白い肌、黒い髪、赤い唇」で良いではないかと思ってしまうのだ。

 それでも勧められた物をバッサリ否定するのも気が引けて、モニカは曖昧に笑いつつ相槌を打つ。

 そこにイザベルの侍女、アガサが控えめに声をかけた。

「お嬢様、そろそろお食事のお時間ですよ」

「あら、もうこんな時間。お姉様、わたくし、少々食堂に行って参りますわ。お姉様の分のお食事はアガサに用意させてますので」

「あ、ありがとうございます」

 礼を言いつつ、モニカはホッと安堵の息を吐いた。



 * * *



 カロライン嬢に一服盛られて医務室送りになったモニカは、数日ほど授業を休み、イザベルの部屋で療養をしていた。

 モニカとしては屋根裏部屋でも一向に構わなかったのだが、イザベルは既にモニカの為に自室にベッドを持ち込んでいて、断れなかったのである。

 正直、他人との共同生活に慣れていないモニカには落ち着かないことこの上ないが、その辺は侍女のアガサが上手く立ち回ってくれた。イザベルがはしゃぎすぎると、アガサがそれとなくイザベルを嗜めてくれるのだ。

 今もアガサはイザベルを食堂に誘導すると、モニカには食事を乗せた盆を持ってきてくれた。

「こちらにお食事を置いておきますね。お下げの際は、こちらのベルを鳴らしてください」

「……あ、ありがとう、ござい、ます」

 アガサはニッコリ微笑み、一礼して部屋を出て行った。

 モニカが人のいる場所での食事に慣れていないと察した上での気遣いがありがたい。

 モニカはベッドから下りて、椅子に腰かける。テーブルの上には、柔らかなパン、チーズ、魚のソテー、ポタージュ、林檎を甘く煮た物が並んでいる。

 どれも、わざわざモニカのためにアガサが食堂を借りて作ってくれたらしい。モニカはイザベルとアガサの気遣いに感謝しつつ、パンを千切って口に運んだ。ふわふわの白いパンは柔らかくて、ほんのり甘い。

 こんな柔らかなパン、山奥では滅多に食べられる物ではなかった。モニカが山小屋で食べていたのは、石のように硬く黒いパンだ。あれはあれで、チーズと一緒に食べると美味しいのだけど。

 パンを噛み締めながら、山小屋での暮らしを懐かしんでいると、窓をカリカリと引っ掻く音が聞こえた。見れば、ネロが窓を引っ掻いている。

 モニカが立ち上がり、窓を開けると、ネロはするりと室内に入り込み、鼻をヒクヒクさせた。

「いいにおいじゃねーか」

「お魚があるよ、食べる?」

「オレ様、魚は好きじゃねーんだ。それより肉がいい。特に鳥がいいな、鳥」

 机に飛び乗ったネロは肉がないことを知ると、不満そうに顔をしかめ「チーズで手を打ってやる」と言った。

 チーズの小皿をネロの前に置いてやれば、ネロは実に美味しそうにチーズを齧る。

「はーうめぇ。これで肉があれば完璧なんだけどな。ちょっと、今夜も一狩り行ってくるか」

「……鳥の骨が喉に刺さって、大騒ぎだったのに?」

「あれは若気の至りってやつだな。知恵のある生き物はそうやって失敗を繰り返すことで、日々成長していくんだよ」

 うんうん、と尤もらしく頷いたネロは、モニカのベッドサイドに小説が置かれていることに気づき、尻尾を振った。

「珍しいな、お前が小説読むなんて……あっ、分かった。オレンジ色のクルクル娘に勧められたんだな」

「イザベル様に失礼でしょ」

 オレンジ色のクルクルとは、イザベルの髪のことを言っているのだろう。ネロは基本的に人間の名前を覚えようとしない。

 モニカが嗜めてもどこ吹く風で、ネロはチーズを齧りながら小説の表紙を眺めていた。

「オレ様の知らない作家だな。なぁ、面白かったか?」

「……よく分からなかった」

「どんな話なんだ?」

 好奇心に満ちた目をしているネロに、モニカはパンをちぎりながら、先ほど読み終えたばかりのストーリーを反芻する。

「……男の人と女の人がいて」

「おう」

「……なんか色々あって」

「ほぅほぅ」

「……結婚するの」

「それで?」

「……おしまい」

 ネロは尻尾の動きを止めて、モニカをじとりと見上げた。

「お前がその小説に、これっっっっぽっちも感動しなかったってことは、よく分かったぜ。その『なんか色々あって』の部分が大事だろうが。何十万文字省略しやがった、おい」

「だって、本当によく分からなかったんだもの……」

 小説の中では、不遇のヒロインが薔薇の木のそばで貴族の青年と出会い、一目惚れで恋に落ちる。だが、青年には婚約者がいた。婚約破棄を認めなかったその婚約者は、ヒロインを追い出そうとあれこれ画策するが、二人はその試練を乗り越えて結ばれる……というストーリーだ。

 だが、モニカにはヒロインの少女と貴族の青年が恋に落ちた理由が理解できない。そもそも、青年には婚約者がいたのだ。そんなの、婚約者は激怒して当然ではないか。

「……なんで、こんな風に誰かに夢中になれるんだろう?」

 作中の登場人物は、まるで溺れるみたいに相手に夢中になっていた。狂おしいほどに相手を求めていた。愛してほしい、愛されたい。自分を選んでほしい、望んでほしい……他の何を失ってでも、と。

 それが、モニカにはなんだか恐ろしく思えたのだ。


「……どうして、こんなに……他人に期待できるんだろう」


 ポツリと零れ落ちた呟きにネロは尻尾をゆらゆらさせながら、金色の目でモニカを見上げた。

「お前は、おこちゃまだから分からないんだろうな。恋ってのは、こう、落ちたら心臓がズキューンってなるんだよ。ズキューンって」

 いかにも物知りぶった顔で言うネロをモニカがじとりと睨む。

「……じゃあ、ネロは『恋』が分かるの?」

「おぅ、勿論。ちなみに、オレ様の好みは尻尾がセクシーな雌だな」

「…………尻尾」

「オレ様、尻尾のない雌には欲情できねーから、お前は論外だ。安心しろ」

 尻尾のないモニカには理解できない世界である。

 もしかしたら、モニカには尻尾がついていないみたいに、恋心なんていうものも初めから備わっていないのかもしれない。

 その結論に満足し、モニカはパンをちぎって口に放り込んだ。



 恋だの愛だのが分からない以前の問題なのだ。

 臆病なモニカは誰にも、何も、望めない。期待できない。

 狂おしく求めるのは、裏切ることのない数字だけでいい。

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