【3−1】睫毛の力学
「貴女みたいな我が家の恥晒しが生徒会役員だなんて、どういうことですの!? さぁ、正直に白状なさい! 一体、どうやって殿下に取り入ったのかを!」
廊下に響くほどの声でケルベック伯爵令嬢イザベル・ノートンは叫び、ティーカップを床に叩きつけた。
カシャーンと陶器の割れる音に、モニカはヒィッと息を飲む。
更にイザベルはベッドサイドに飾ってあったぬいぐるみを持ち上げると、それを大きく振り上げて壁に叩きつけた。ボスッ、ボスッ、と程良くくぐもった殴打音がする。
「まぁ、なんなの、その反抗的な目は!? 自分の立場が分かっていないようね? ならば、その身に思い知らせてあげるわ!」
そう言ってイザベルはぬいぐるみを力一杯壁に叩きつけると、爽やかな顔で額の汗を拭った。その顔は、一仕事終えた職人のような達成感に満ちている。
「悪役令嬢的には、こんなところかしら?」
「え、えぇっと……」
モニカが返答に困っていると、割れたティーカップを片付けていたイザベル付きの侍女アガサが、笑顔で頷く。
「流石イザベルお嬢様、見事な悪役令嬢ぶりですわ!」
「でしょう? でしょう? 特に『その身に思い知らせてあげるわ』の部分は、最新刊の応用でね」
「きゃー! 見ました見ました! 伯爵令嬢がヒロインの顔に傷をつけようとフォークを振り上げたところを、プリンスが助けに来てくださるんですよね!」
「そうなのー! そのシーンがもう本当に素敵なのよ!」
キャアキャアと盛り上がるイザベルとその侍女についていけないモニカは、自分用にと用意された紅茶をちびちび飲みつつ、口を挟む。
「あ、あの……ティーカップを割るのは、流石にやりすぎ……では……」
木っ端微塵になったティーカップにモニカがちらりと目をやれば、イザベルは得意げに胸を張った。
「問題ありませんわ、元々、ヒビが入っていた物ですから! このために欠けた食器をストックさせてますの!」
「そ、そうですか……」
「ちなみに、叩きつける時は音がよく響くように、絨毯の上ではなく大理石の上に叩きつけるのがポイントですわ!」
無駄に芸が細かいイザベル嬢に、アガサが「流石お嬢様! 演出を分かっていらっしゃる!」と満面の笑みで手を叩いた。
モニカが生徒会会計に就任が決まったことをイザベルに報告すると、イザベルは飛び上がって喜び、自室にモニカを招待して、お茶の用意をしてくれた。
裕福なイザベルは寮でも個室を使っており、侍女も三人ほど連れてきている。そんな侍女の中でもアガサは一番の若手で、イザベルとは読書仲間であるらしかった。イザベルの「悪役令嬢ごっこ」に嬉々として協力している。
(じ、自分のお嬢様が悪役扱いされているのに、良いのかなぁ……)
実に楽しそうなイザベルとアガサに、モニカは密かに頭を抱えていた。
この部屋の近くを通った人間は、モニカがイザベルの部屋に連れ込まれ、折檻されていると誤解していることだろう。だが、これではイザベルの評判が落ちてしまうのではないだろうか?
モニカの心配をよそに、イザベルはぬいぐるみを元の位置に戻すと、実に優雅な姿勢で椅子に座り直した。
「では、改めて……モニカお姉様。生徒会会計就任、おめでとうございます。入学して僅か数日で生徒会役員に選ばれるなんて、……やっぱり、やっぱりお姉様は特別なのですわぁ〜!」
イザベルが頬に手を当ててキャアキャアはしゃげば、アガサが廊下に目配せをして、唇に指を当てた。
「お嬢様、しーっ、ですよ。大きい声を出すと廊下に聞こえてしまいます」
「はっ、そうでしたわ。では、小声で失礼……お姉様、本当におめでとうございます。わたくし、自分のことのように嬉しいですわ」
モニカは意味もなくカップを弄りながら、か細い声で「ありがとうございます……」と礼を言う。
イザベルは優雅にカップを傾けると、モニカにニコリと品良く微笑んだ。
その仕草や笑顔は、先ほどまでぬいぐるみを振り回していた人物と同一人物とは思えない。完璧な令嬢の笑みである。
「お姉様、学園生活で困ったことがあったら、何でも仰ってくださいましね。わたくし……表向きは悪役令嬢として華麗にお姉様の妨害をしつつ、陰からサポートいたしますから」
妨害しつつサポートをするって、どういうことだろう……と内心疑問に思いつつ、モニカは曖昧に頷いた。
イザベルの反応も頭が痛いが、それ以上に深刻なのはクラスメイトである。
何せ、昨日のモニカは生徒会副会長のシリルに連行され、一日授業をさぼっているのだ。その上で、生徒会役員になったなんて知られたら……どんな目に遭わされるか。
モニカは寒くもないのにカタカタと震えながら、紅茶を少しだけ啜った。
* * *
翌日、モニカは部屋を出た瞬間から、寮でも通学路でも教室でも周囲の視線に晒された。どうやら、モニカが新生徒会役員になった件は、周知されているらしい。
昨日までの田舎者に向けられていた侮蔑の目が、今は嫉妬混じりの悪意に変わっているのが嫌でも分かる。
肌にチクチクと刺さるような悪意と敵意。
苛立ちと嘲笑に彩られたヒソヒソ声。
(帰りたい……)
自分の席で半分ベソをかきながら、そんなことを考えていると、突然背後から肩を叩かれた。
モニカはビクゥッと竦み、全身をガタガタと震わせる。
振り向くのが怖い。きっと呼び出しだ。校舎裏に呼び出されて水をかけられるんだ……と、泣きそうになっていると、モニカの三つ編みがグイと引っぱられた。
「ねぇ、ちょっと。今日もその髪型なわけ?」
ムスッとした顔でモニカを睨んでいるのはラナ・コレットだ。今日は髪を綺麗に巻いてサイドから垂らしている。纏めた髪の根本には花モチーフの髪飾りが留められていた。
一方モニカと言えば、今朝は学校に行くのが憂鬱で仕方なくて、新しい髪型に練習する心の余裕なんてこれっぽっちも無かったのだ。
そういう時ほど、身嗜みなど適当になるもので、三つ編みはいつもよりボサボサになっている。
ラナが不機嫌そうに眉をひそめたのを見て、モニカは咄嗟に謝った。
「ご、ごめんなさい、ちゃんと……練習できなくて……その……」
「それって、あなたが昨日、生徒会に連れて行かれたことと関係ある?」
「…………」
「あなたが生徒会役員になったって噂を耳にしたんだけど、冗談よね?」
生徒会役員であることを示す飾りピンは、今は外してポケットに入れている。
モニカが無意識に服の上からポケットを押さえていると、ラナは不貞腐れたように唇を尖らせた。
「なによ、わたしとは口も利きたくないわけ?」
「ち、ちが……違うの……その…………わ、わたし……」
モニカが俯いて口をモゴモゴさせていると、ラナは「手」と短く呟いた。
手がどうしたのだろう? モニカが自分の手とラナを交互に見ていると、ラナはモニカの腕をむんずと掴んで、問答無用で袖をたくし上げる。モニカはヒッと息を飲んだ。
腕に何をされるのだろう? 何か痛いことをされるのだろうか? ……恐ろしい想像に震えていると、ラナはモニカの手首をまじまじと眺めて、少しだけ安心したように息を吐く。
「……なんだ、手に怪我をしたわけじゃないのね」
「え?」
「あなた、昨日アシュリー副会長に氷の魔術を使われてたじゃない。氷の手枷で拘束するやつ。だから、凍傷にでもなったのかと……」
モニカは目から鱗が落ちる思いだった。
昨日、シリルに氷の手枷を付けられた時、モニカは咄嗟に防御魔術を張っているから、凍傷は負っていない。だが、それを知らないラナは、モニカが凍傷を負ったのではないかと心配してくれていたのだ。
自分が感じていた恐怖の一つが、するりと解けて消えていくのを感じる。気がつけば、モニカは泣き笑いみたいな顔をしていた。
「……ありがとう、ございます」
ラナはフンと鼻を鳴らした。その頬は少しだけ赤い。
それを誤魔化すように、ラナは亜麻色の髪をかき上げて、櫛を取り出した。
「仕方ないから、今日もわたしが髪を編んであげるわよ」
「……へへ」
「なにヘラヘラ笑ってんのよ! ちゃんと覚えなさいよ!?」
「……うん、はい」
なんだか妙に幸せな気持ちでモニカが頷いたその時。
「へぇ、昨日の髪型はお友達にやってもらってたんだ? 器用だね」
柔らかで甘い声は、昨日嫌になるぐらい聞いた声だ。
ラナがギョッとした顔をしている。ラナだけじゃない、教室にいる誰もがその人物に注目している。
モニカが死にそうな顔で振り向けば、こちらを見てニッコリと微笑むフェリクスと目が合った。
朝日を透かしてキラキラと輝く柔らかな金髪に、神秘的な碧い目、端正に整った顔立ちに女子生徒達はキャアキャアと黄色い声をあげている。
少し弁えた者は声を上げたりはしなかったけれど、それでもうっとりと熱っぽい眼差しをフェリクスに向けていた。ラナも驚きつつ、フェリクスの美貌に見惚れている。
「やぁ、おはよう」
「おっ、おっ、おは……よ……ごひゃい、まふっ」
「朝から突然押しかけてすまないね。君に生徒会役員のスケジュールを渡しておこうと思って」
フェリクスの言葉に周囲がざわつく。ラナですら目を見開いてモニカを凝視していた。
(……今すぐこの場から消えてしまいたい)
死人の様な顔色のモニカに、フェリクスはスケジュールを書いた紙を手渡すと、モニカの襟元を指でなぞる。
「おや、役員章は? つけていないの?」
「あ、え、えっと……」
モニカが首を横に向けて誤魔化そうとすると、フェリクスはモニカの顎を掴んで、無理やり正面を向かせた。
「出してごらん?」
モニカが怯えながら役員章を取り出せば、フェリクスはそれを摘み上げ、自らの手でモニカの襟に留めた。
「勝手に外してはいけないよ? 君は栄えある生徒会役員の一員なのだから。それに相応しい姿でいないと」
あぁ、生徒会役員なんてやりたくない。やりたくないけれど、護衛任務のためにはやるしかない。
だがそれにしても、周囲の視線が痛い。
(……怖いよぅ)
なんと言ってもフェリクスとの距離が近い。近すぎる。
現実逃避に、モニカはフェリクスの睫毛の本数を数え始めた。
一本、二本、三本、四本……髪と同じ色の睫毛は驚くほど長い。マッチ棒が何本乗るだろうか。二本……否、もしかしたら三本ぐらい乗るかもしれない。
モニカは睫毛の本数を数える作業と並行して、マッチ棒を支えるのに必要な睫毛の本数を考える。睫毛一本あたりの強度、生え方の密度、それと睫毛の角度も重要だ。
そんなことを考えて現実逃避していると、目の前で長い睫毛が持ち上がり、碧い目が悪戯っぽく煌めいてモニカを見上げる。
「そんなに見つめてどうしたんだい?」
「……ま、まま、ま、マッチ棒を……」
「うん?」
「マッチ棒を乗せるのに最適な睫毛の角度について考えてましたっ」
息を飲んで成り行きを見守っていたクラスメイトが硬直し、ラナにいたっては「ちょっ、ばか……っ」と真っ青になっている。
だが、フェリクスはクスクスと肩を振るわせて笑い、モニカの襟元から手を離した。
「髪の毛、お友達に可愛くしてもらうといい。昨日の髪型、可愛かったよ。リボンもよく似合っていた」
フェリクスはモニカの髪を少しだけ指で梳いて、パチンとウィンクをする。
「じゃあ、また放課後に。生徒会室で」
そう告げて、フェリクスは教室を立ち去った。
モニカはヘナヘナと椅子に座り込み、ゆっくりと息を吐く。
疲れた。まだ朝なのに、どっと疲れた。
もうこのまま部屋に戻ってベッドに潜りこみたい……なんてことを考えていると、ラナがモニカの肩をグイグイと押して椅子に座らせる。彼女の目は爛々と輝いていた。
「あ、あのぅ……?」
モニカがビクビクしながらラナを見上げれば、ラナは鼻息荒く、櫛を構える。
「わたしの腕が殿下に認められたのよ……生半可な髪型で送り出すわけにはいかないわ……覚悟しなさい。とびきり都会的で流行最先端の可愛い髪型にしてあげるから」
「昨日のでお願いしますぅぅぅぅ」