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【2ー10】第二王子の秘密

「おい、モニカ。起きろ、おい」

 ネロの声がした。それと、ふにふにと頬を押す肉球の柔らかな感覚も。

 薄く目を開けたモニカは、自分が清潔なベッドの上で寝かされていることに気がついた。ベッドの周囲はカーテンで区切られていて、微かに消毒液の匂いがするから、きっと医務室なのだろう。

 ベッドの上でゴロリと寝返りを打てば、ベッドサイドに黒猫のネロがちょこんと座っているのが見えた。医務室に動物は厳禁だから、きっとこっそり窓から忍び込んだのだろう。

「……ネロ、わたし、すごい夢を見たの。わたしが生徒会会計に任命される夢で……」

「聞いて驚けモニカ。そいつぁ夢じゃなくて現実だ」

 そう言ってネロはモニカの襟を前足でチョンチョンとつつく。

 モニカの襟には見覚えのない装飾ピンが留められていた。それはフェリクスや他の生徒会役員の襟元にも付けられていた、生徒会役員の証だ。

 モニカはベッドから上半身を起こすと、自分の襟元を凝視する。

「こっ、ここ、こっ、ここ、これ……これって」

「あの王子様がお前の襟につけてたぜ。人間って、こーいうの好きだよなぁ。権力のしょーちょー、ってやつ」

 ネロはうんうんと頷き、モニカの太腿を肉球でポムポム叩いた。

「何はともあれお手柄じゃねぇか。これで生徒会役員として、堂々と王子様のそばにいられるぜ」

「そ、それは……そうだけ、ど……」

 そう、第二王子を極秘で護衛することを考えれば、会計就任は非常に喜ばしい事である……が、モニカのように冴えない娘が生徒会役員に選ばれるなんて、誰だって良く思わないに決まっている。

 あの時、モニカはほぼ床に這いつくばっていたから、生徒会役員全員の顔を見てはいない。だが、床に平伏していてもなお、生徒会役員達の冷たい敵意は痛いぐらいに伝わってきた。

 特に副会長のシリル・アシュリーは、今にも攻撃魔術の一つや二つは使ってきそうな雰囲気だったのだ。

「ぜ、ぜぜ、絶対、苛められる……っ、く、靴に画鋲を入れられて筆記用具を隠されて制服に水をかけられて……やだぁ、もう、教室に行きたくないぃぃぃ……」

「おっ、そのシチュエーション、小説で見たことあるぜ! マジでやる奴いるのか?」

「なんでちょっと楽しそうなのぉ!?」

 モニカが悲痛な声で叫んだその時、ネロがピクンと耳を立てた。

「おいモニカ、誰か来るぜ」

 そう言ってネロは素早くベッドの下に隠れる。

 誰かって誰だろう? 医務室の職員だろうか?

 モニカがそんなことを考えていると、ベッドを囲っていたカーテンが捲れた。

 カーテンを捲ったのは医務室の職員ではなく、フェリクスだ。

 モニカは反射的に布団を頭から被った。失礼なのは百も承知だが、それでも体が勝手に動いてしまったのだから仕方ない。防衛本能というやつである。

 フェリクスは不快そうな顔をするでもなく、寧ろ面白がるように笑った。

「おや、起きていたのかい? 声もかけずに失礼。まだ寝ていると思ったのでね」

「い、いえ、めめ、めそめそめそめそ……」

「メソメソ?」

「滅相も、ありっ、ませ……ん」

 モニカが死にそうな顔で言葉を絞り出せば、フェリクスは「そう」と楽しそうに笑って、あろうことかモニカのベッドに腰を下ろして、足を組んだ。

 モニカは少しでもフェリクスと距離を開けたくて、布団に包まったままベッドの端ギリギリまで移動し……バランスを崩して、ベッドからコロリと転がり落ちる。

「きゃんっ!」

 幸い布団に包まっていたので怪我はせずに済んだが、それでも痛いものは痛い。 

 ついでに、ベッドの下に隠れているネロの「何やってんだ」と言いたげな視線も痛い。

 もういっそ、自分もベッドの下に潜り込んでしまおうかと、布団に包まりながら考えていると、頭上で声がした。

「子リスさん、そんなに布団に包まって……今から冬ごもりの支度かい?」

「は、はいっ、そそそそそそうです、ああああああの、きょ、今日はすごく、寒くて、ですね……」

 なお、今は夏から秋に季節が変わり、非常に過ごしやすい季節である。

 それでもモニカは布団を握りしめて、寒いから布団をかぶっているのだと必死で主張した。

 すると、フェリクスは布団を握るモニカの手を、自分の手で包み込む。

「そう、可哀想に。じゃあ、暖めてあげよう」

 モニカは素早く布団を手放し、バックステップでフェリクスと距離を取った……が、慣れないバックステップに足をもつれさせて「ふぎゃん!」と床を転がる。

 またしてもベッド下のネロと目が合った。泣きたい。

 それでも、いつまでも床に這いつくばっている訳にもいかないので、モニカはのろのろと起き上がり、ベッドの影に隠れながらフェリクスを見上げた。

「あ、あの、で、殿下……」

「生徒会長でもフェリクスでも、好きに呼んでくれて構わないよ。君も今日から同じ生徒会の仲間なのだから」

 フェリクスの言葉がモニカに現実を突きつける。

 モニカは襟元の飾りピンを指で摘まむと、震えながらフェリクスに告げた。

「わ、わ、わたしに、会計のお役目、は、荷が重い…………です」

「私の采配に不満が?」

 声にほんの少しの冷ややかさが混じるだけで、威圧感がグッと強くなる。

 モニカが千切れそうな勢いで首を横に振れば、フェリクスは「ならば、何の問題もないね」と微笑み、モニカの手を取った。

 そして、モニカの掌を上向かせると、そこに何かを乗せる。それは木の実をたっぷりと使った焼き菓子だ。

「今日のご褒美だ。よく頑張ったね」

「お、おおおおお恐れいりま……むぐっ」

 吃るモニカの口に、フェリクスは菓子を一つ摘んで放り込む。

 そういえば昼食もまだだったことを思い出したモニカは、むぐむぐと無言で菓子を咀嚼した。少し硬めのクッキーには蜜で固めた木の実が乗せられていて、初めて食べる味だった。これがまた、とにかく美味しい。

 一度食べ始めると食事に集中してしまう性分のモニカは、会計の辞退を申し出ようとしたことすら忘れて、夢中で菓子をサクサクモグモグと味わった。

「美味しい?」

 楽しげなフェリクスの問いに、モニカは菓子を頬張りながらコクコクと頷く。

 フェリクスはそんなモニカに追加の菓子を握らせると、静かに立ち上がった。

「頑張ったら、もっとご褒美をあげるよ、子リスさん」

 また明日、とモニカに手を振り、フェリクスは医務室を出て行く。

 後に残されたモニカは口の中の菓子を飲み込んでから、漸く我に返った。

「あああああ、会計のお役目、断り損ねたよぅぅぅぅ、どうしようネロぉぉぉぉぉぉ」

「お前……菓子握りしめながら言っても、何も説得力ねぇぞ?」

 モニカはグスンと鼻を啜ると、菓子をポケットにしまう。

 恐らく、フェリクスはモニカを見逃してはくれないだろう。

 フェリクスとしては、夜遊びに行く現場を目撃してしまったモニカを、そばに置いて監視したいのかもしれない。

(……あ、殿下の秘密と言えば……)

 モニカは腫れている頬に手を添えると、真剣な顔でネロを見た。

 モニカは第二王子のとんでもない秘密を知ってしまったのだ。

「ネロ、聞いて。わたし、殿下の重大な秘密を知ってしまったの」

「なんだ? あの王子の弱みか?」

 尻尾を左右にフリフリして目を輝かせるネロに、モニカは神妙な顔でコクリと頷く。



「殿下には…………肉球があるの」



「ねぇよ」

「で、でも、さっき、資料室で、ほっぺに肉球がふにってなって、振り返ったら殿下がいて……」

 モニカが頬を撫でながら主張すれば、ネロはいつになく真面目くさった態度で告げる。

「忘れろ、モニカ。いいか、あの時のことは忘れるんだ」

「…………え? う、うん?」


 * * *


 フェリクスが寮の自室に戻ると、制服の胸ポケットからスルスルと水色がかった白い蜥蜴が這い出てきた。

 蜥蜴が床に着地すると同時にその姿は淡い霧に包まれ、鱗によく似た髪色の青年へと変化する。顔立ちはそれなりに整ってはいるが、どこか影が薄く覇気のない青年だ。身につけているのは仕立ての良い侍従服。人間にはあらざる色の水色がかった髪をオールバックにまとめている。

 青年は恭しく一礼すると、フェリクスの上着を脱がせた。そして上着をハンガーにかけつつ、彼は控え目に口を開く。

「……宜しかったのですか、殿下?」

 この侍従が何を言いたいのかは言わずもがな……モニカ・ノートンを会計に任命したことだろう。

 フェリクスはソファに腰掛けて、軽く肩を竦めた。

「私がわざと落とした資料室の鍵に、彼女は手をつけなかった。他の棚も開けられた形跡は無し……現時点で彼女を咎める理由が思いつかないな」

 モニカが気絶した後、資料室の資料を一通り確認したが、モニカの指摘はどれも正確だった。七十五年分の記録全てを、モニカはたった半日で全て見直したのだ。

 彼女の計算能力は、会計として申し分ない。

「無論、私は彼女が一般人だとは思っていないよ。きっと、なんらかの事情があって私に接触したのだろう」

 現時点では、モニカ・ノートンがどの勢力に属し、どういう目的を持ってフェリクスに近づいたかまでは分からない。だが、彼女には何かあるとフェリクスは確信していた。

 フェリクスは少しだけ首を傾けて、侍従の青年を見上げる。

「彼女が一般人ではないと分かっていて、何故、会計にしたのかって言いたげだね?」

「……はい。そもそも殿下は、元会計アーロン・オブライエンの不正にも、最初から気付いていたのでしょう?」

 それでも一回二回の不正では厳罰に処せないから、一年間泳がせていたのだ……確実に、アーロン・オブライエンを学園から追放するために。

「そこまでして、漸くアーロン・オブライエンを退学に追いやったのに……何故、後任に彼女を?」

 侍従の問いに、フェリクスはすぐには答えず、ローテーブルに出しっ放しにしていたチェスボードに手を伸ばす。そして盤上から白のポーンを摘み上げて、手の中で転がした。

「これはゲームだよ、ウィル」

「……ゲーム、ですか?」

「そう。いかに臆病な子リスを飼い慣らして、企みを白状させるか……そういうゲームだ」

 フェリクスはポーンの駒に口づけると、そのままコトリと盤に置く。

「君も見ていただろう? 彼女は、私に、全っ然、興味が無いんだ」

「そ、それは……」

 侍従の青年は口ごもりつつも、否定はしない。

 彼はフェリクスの胸ポケットから、全てを見ていた。

 資料を一心不乱に見ているモニカは、フェリクスなんてこれっぽっちも目に入っていなかった。

 医務室で距離を詰めたら、真っ青になってベッドから転がり落ちる始末……あれは、照れ隠しなんかではない。本気で怯えていた。

「人慣れしていない子リスが、私にだけ懐いたら……嬉しいだろう?」

「ですが、次期国王選びが近いこの時期に、あまりお戯れは……」

「──ウィルディアヌ」

 フェリクスが口にしたのは、侍従──ウィルの真の名だ。

 背筋を伸ばすウィルに、フェリクスは歌うような口調で言う。


「『僕』の人生は、次期国王が決まるまでの余生だ。ならば……少しぐらい楽しませておくれ?」


 フェリクスはほんの少しだけ眉を下げ、口元に儚い笑みを浮かべていた。

 ウィルだけが知っている……この若者の、本当の願いを。

「……殿下、いえ……」

 ウィルは緩やかに首を横に振り、丁寧に腰を折る。

「……我が主人の、仰せのままに」

 フェリクスは満足げに頷き、白のクイーンを盤の端へ動かす。

「あの子リスは案外目敏い……『マダム・カサンドラの館』へ行くのは、しばしお預けになりそうだ」

「そのまま、夜遊びはお控えください」

「そうだね、退屈しのぎに子リスを飼い慣らす方法でも考えよう」

 フェリクスはクスクス笑って白のポーンを指で弾く。ポーンはコロリと盤上から転げ落ちた。まるで、ベッドから転げ落ちたモニカのように。


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